例えば秘密のノートに記すように。

cancion-de-la-abeja(みつばちのささやき)          

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キリマンジャロ


 封を切ると珈琲豆のかぐわしい匂いが鼻先まで届いた。引っ越し前に買った、彼の好きなキリマンジャロの袋をやっと開けることができたことを笑う。
 手動式のミルが立てる豆の砕ける鈍く重く、それでいて軽快な音に弾んだ気持ちになる。随分粗挽きになったと想いつつ淹れた珈琲は、キリマンジャロの豆の持つ酸味を保ったままあまい味になった。

 音楽は流さない。静かな朝、静かな台所。レエスのカーテンから抜けてくる光は弱く、部屋は薄暗い。水を替えたばかりの花瓶の傍にひとひら落ちたゼラニュームの花びらを拾う。
 昨日花瓶代わりのリトルミイのカップから抜いた早くも乾燥花になりつつあるリラは、、遠慮がちにあたしを見ている。仮の居場所から移る日を彼女は待っているのだろう。

 彼の好きな味にキリマンジャロを淹れることができたなら、引っ越し前に使っていた珈琲カップを出してみよう。

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強い匂い


 水を取りかえるため花瓶から抜いたとき流しにはらはらと落ちた花びらに、赤い花がゼラニュームだったことにやっと気付いた。
 花屋で見る姿とは全く異なり、うねりながらひょろひょろと高く伸びた茎に、剥き出しの野生などと云う言葉を当ててみるとしっくりした。大きな葉は匂いが強く、室内より屋外が似合う植物だと想い調べると、アフリカからやってきたのだと知る。
 久し振りで耳元に鳴るユッスー・ンドゥールの歌とトーキングドラムの音。壱瞬嗅いだような夏の夕暮れの匂い。ゼラニュームからする匂いと重なる。

 夜になりブルーレイレコーダーの前に座り、もう壱度観ようと決めていた「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」を再生する。ホロドモール、ウクライナの大飢饉と其れを取材したジャーナリストの物語。
 悧口になった方がいい、と口にする人にたまに逢うが、隠蔽は悧口なことなのだろうか。

 残る匂い。濃厚な匂い。消されても其の都度誰かにみつけられ湧き上がる強い匂い。

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雨天中止


 朝から降る雨は昼過ぎに強い雨になり、母の面会をとりやめた。レインコートを着て門扉まで出ていったのに、家の中へ戻り、無理、と口にする。
 雨はしだいに猛烈な雨になり風の唸り声まで聞こえてきた。とりやめて正解だったけれど、これが夫だったらあたしはどうしたろう。

 誰にでも同じように接することができない自分は時々鏡になる。
 真夏の暑い日。無理しないで、と彼は何度もあたしに言ったけれど、ぎっくり腰になった日も面会に行った。自然にあたしをそうさせてくれた人。

 彼の病室。彼が持っていた空気と空間。あたしだけが知っている幾つかのこと。
 想いはいつも彼に向かう。

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眠り


 睡眠を捌時間にしてみるととうとう眠気に堪えられなくなり、面会から帰ると横になってしまっていた。捌時間半でも壱日起きていられるのでもう丗分と想ったけれど、丗分は大きかった。
 漆時以降に珈琲を飲むと夜中壱度起きるようになって久しい。眠る前に飲むと落ち着くのにと想いつつ我慢して床に就き、捌時間の睡眠にしたのに。睡眠を多くとり、珈琲を我慢しない方がいいのかもしれない。

 心地よい眠り、昼間快適でいられるために。快適な過ごし方と時間、心地よい眠りのために。卵が先か鶏が先か。そう云ったみつからない答は考えなくていい。

 指先にはアロマバームを塗り、カエルの人形に額をくっつけ、寝まあす、と元気な声で彼に手を振る。亀さんは?、って言われているような気がするけれど、今日はおしまい。
 睡眠時間が足りなくても、毎日のように夢を見ていても、心地よく眠れた日々を思い出し、目を瞑りうとうとしながら彼が亀を抱え寝室に来るのを待った。

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乾燥花


 思い切ってアマリリスの茎をひとつ切り、花瓶に活ける。其処に蔦の葉に似た枝を添えた。随分豪華になりました、と父の傍に置くが返事はない。いつものように黙って繁々と眺めているので、新しく淹れたお茶をそっと差し出す。
 そしてスターチスやこでまりを活けたもうひとつの花瓶には、鉢植えから大きな赤い花をふたつ折って足した。名前はわからない。こちらも随分華やかになって、と彼に笑いかける。

 珈琲を飲みコンビニエンスストアで買ったあまい菓子を食べ、CDを聴く。
 こんなときはNOKKOばかり聴いていると想っていたのに、考えたらhàlの「二十歳のころ」を壱番聴いてきたかもしれない。

 「ねぇ、おぼえていて、わたしもう二十歳になること、・・・。」

 変化は突然訪れる。
 もしかしたら今の方が拾玖歳のころの自分と密接に繋がっているかもしれない。
 アマリリスも素敵なら、色褪せて趣を得た乾燥花も素敵で、時があたしの内で溶けて混じりあっていく。

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