例えば秘密のノートに記すように。

cancion-de-la-abeja(みつばちのささやき)          

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油断大敵


 あっと想ったときには遅かった。腰にぴりっと走った嫌な痛み。
 数度繰り返し、途中で止める感覚さえ覚えた筈が、連日丗度の気温に体温は上がらず、血圧も110から下がることなく、安堵の気持ちが油断に繋がっていたのだろう。
 弐年振りになったぎっくり腰は、最初の頃になったぎっくり腰と同じにそれはそれは立派なものとなった。

 此処では浴室にもトイレにも手すりが付いている。母の湿布薬に鎮痛剤に手押し車もあれば、緊急通報の機器も設置されている。
 にゃ、にゃ、・・・にゃんとかにゃるにょ。・・・心配事と言えば、ひとりでいると苦手なナ行の滑舌が・・・。

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今日


 何年も前に購入した木綿のワンピースを、寝間着にしてもいいからと箪笥の奥にしまっておいた。その間にできた小さな染みにも気付かずに。
 洗濯するとあっさり染みはとれ、乾いたワンピースに袖を通す。肘が出る袖丈や襟の空き具合、腰の切り替え、スカート丈に拡がり、と基本の形と云えるような作りなことや、白なのに下着が透けない生地の厚さにも驚く。
 何故、古くなってしまったと想ったのだろう。何故、着なくなってしまったのだろう。考えてもわからない。

 引き出しから珊瑚のイヤリングを出してつけ、台所に立つ。
 千切りでなく、皮引きで人参を細くする。其れを塩もみしたあと酢で漬けた。確か仏蘭西の何とかと云う料理、の真似。
 保存容器に詰めた人参を冷蔵庫に入れようとすると、電話が鳴った。
 「こぉんんにぃちぃわあ」、と子供か高齢者を相手にわざと作ったような話し方に嫌悪感しかなく、「へぇいっ、まにあってっだよー!」と言いガチャっと受話器を置いてしまっていた。そんな自身に驚愕しつつも、反省するどころか、こんなこともできるようになって、と感心していることに笑う。

 ワンピースを着て鍬を持ち、チャーリーパーカーでも聴きながら畑仕事をするなどと云うのも素敵かな・・・。
 隣ではいつものように彼があたしの話を聞いているのか聞いていないのか、冷蔵庫にしまったばかりの保存容器の中身を小皿に移していた。

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発光


 主不在の部屋に朝が来る。窓際に置いたベッドの辺りが明るくなり、障子を開け隣室にいる父に声を掛ける。ベッドと隣室の間には、卓と兼用の大きな炬燵と手すりと背もたれのある母専用の椅子が置いてある。其の傍に置いたテレビは電源を抜いてしまった。
 折角改装したのに、籐製の鏡台に大きなアクリルケースに入った折り紙でできた花嫁人形に作り直した刺繍の入った遮光カーテンに・・・と配置し整頓された部屋ができたのに。越してきて辛かったけれど、だんだん落ち着いてきた母とならそれなりにやっていけると想ったのに。
 たった数箇月だった。けれど其の数箇月があるからこそ、あたしは強くいられる。

 嫌な人は頭から消えない。いつまでもいつまでも憶えている。思い出して嬉しくなる人は頭でなく胸の内にいる。いつまで経っても消えない。悦びが悲しみを救えぬように、悲しみが決して悦びを侵さぬように、間には堅牢な境界がそびえ立っている。大地を突き抜けてきた印象と感触のある境界が。
 「光り出した青は冬、暗闇に飲まれない、どこかに強い意志を持っている、発光・・・。」
 ROSSOの歌を口遊み、昼食にパンケーキを焼いた。乗せたのはアイスクリイム。バニラ。美いな白。こんなときのアイスクリイムは生きていると想う。きっと発光している。

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板の間


 玄関の隅に追いやられてしまったスリッパ。上がり口に置いたタオルを縫った足拭き。
 板の間も足裏も熱が籠るようになり、裸足で歩き廻っていると白い跡が付くようになった。此のところ毎日稼働するフローリングワイパー、掃除機、雑巾、箒に塵取り。けれど、どんなにしても床に跡や埃がなくなることはない。
 壱ミリの引っ掻き傷も気になる性格。終わりがないとわかっていても腕は自然に伸びている。考えていないときの動作はいいななどと想いつつ、どうしてこうなったのか模索するけれど、途中でやめてしまう。

 未明の空気が残っているのだろうか、家の周りに水を撒いたからなのだろうか。ときどき踝を撫でていく冷たい空気にふれようとするけれど、指先でも届かない。
 玄関扉の硝子を抜けやってくる陽射しは弱く、玄関だけが明るい。手前の板の間が白く光る様子を眺めながら、今日も暑くなるとひとりごちて水を飲む。
 其れは子供の頃に存在していた夏。唯一の板の間は縁側で、壱年中外にサンダルを置きっ放しにしていた。そして端に置かれたあたしの机。

 掃除した板の間に伏せ、暑さに負けて庭遊びから戻ってくる猫を今もあたしは待っている。

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黒と静寂


 白い衣類は白い衣類のみで洗濯するのがいいように、黒い衣類も黒のみで洗濯した方が色持ちがいいような気がする。
 白っぽいものと黒っぽいものに分け籠に入れた洗濯物の半分を洗濯し、竿に掛ける。並んだ黒い衣類。漆黒、墨、濡羽色、消炭色、鉄紺、と微妙に異なる色に、夜の空気や森のうす暗さや日影、クワガタムシの背などが重なる。

 昼が近付き降りが強くなった雨に、弐階の南側の窓と壱階のかあさんの部屋の窓は閉めた。他は閉めない。吹き込まないと知ったから。

 開いた窓の向こう、ばしゃばしゃと大きな音を立てている雨。耳が外と繋がっている。意識して息を吸えば、ドクダミの匂いも感じる。いつか嗅いだ匂い。いつのまにか隣にいた彼に、チョコボールを埋めた処を憶えている?、と訊ね、彼が助けて壱年以上家にいたクワガタムシに想いを馳せる。

 止まってしまったような時間。墨色の大きな麻の布が欲しくなる。雨の日だけ垂らすカーテンにしたい。
 黒があたしに運んでくるのは静寂。其れも息が詰まるほど透明な。

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