例えば秘密のノートに記すように。

       cancion-de-la-abeja(みつばちのささやき)          

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炭酸水


 御飯を炊くのを忘れてしまいフェットチーネを茹でる。ソースは檸檬とうに。茹でたオクラと千切った紫蘇を飾り、デザートの苺を添える。飲み物は炭酸水。
 最後のうにパスタ、と言い彼の前に出したあとで、ソースは店で手軽に手に入れられることに気付き言い直す。
 特別な日や思い立った日にまたふたり分作ろう。自分が口にしないうにでも薄荷味の食べ物でもパイナップルでもワインでも、卓に置いたら愉しいだろう。

 炭酸水がたてる小さな音を彼になぞる。淡く果敢ない音。けれど、夏や海の光景を連れてくる。
 まぶしさの中に永遠を見たような気がした日、黙って地平線の向こうを見ていたようにひととき炭酸水をみつめて過ごす。ひたすらやさしい時間。自分が透明になっていく感覚。

 いつか拾った櫻貝をまだ持っていると話したなら、彼は笑うだろうか。

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海月


 起きて、牛乳に紅茶の葉を入れ煮る。
 昨夜から思考停止状態になった。ふたつ以上のことを同時進行できるようになり、電車に乗っても震えることがなくなっても、動いた後はひとり何もせずに静かに時間を過ごさないと再び動き出すことができない。
 読書も映画を観ることも音楽を聴くことも散歩もしない。珈琲を淹れることもしない。洗濯が終わり布団を干したあとは、椅子の背にもたれひたすらだらりとする。

 目を閉じて、脳裏に海月が浮かぶ。あれは何処の水族館だったろう。鳥がたくさんいた処とは別な場所だったろうか。うろうろしていると彼の姿が目に入る。
 ひとりもふたりも同じだと想える相手はいいなと想う。それも、常に彷徨っている状態、常に混乱している状態、が消える相手。

 じっとしていればひんやりとした空気が肌に心地いい部屋で、海月のようにゆらゆらしながら考える。適当な場所をみつけたなら、また彼と一緒に昼寝をしよう。

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亀たちの表情


 気温が上がる頃家を留守にすると、亀たちが心配になる。おそるおそる家に入ると、気付いたのか小さい亀がばたばたと騒ぎ始めた音が耳に入る。
 想ったより水は汚れていなかった。けれど、食欲はそうでない。あーんて大きく口を開けたり、じーっとあたしの顔を見たり、空腹になっているのが見て取れる。
 なんとなく亀のことがわかるようになったように、亀たちの方もそうなのかもしれない。

 あたしが育てた猫は、ふみふみの仕草を全くしなかった。かつて唇の内側を噛む癖のあったあたし。嫌がるほど一緒にいることを強いたのではないか、とずっと後になり想ったけれど、帰宅時には待ちかまえていたようにいつも迎えてくれた。何をしても怒ることはなかった。
 久し振りに亀に求愛の仕草をされたが、疲れてしまい鏡に代わってもらった。強いられているのは自分の方ではないかと想い笑う。

 此の夏も、いつのまにか眠ってしまったあたしの隣で、亀たちは首を放り出して眠るのだろうか。
 目を開ければカメラを向ける彼がいて、夢からいつまでも覚めないあたしがいて・・・。これからもそんなふうに過ごしていく気がする。

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西日の射す部屋


 薄手の手袋をしていても、爪に土が潜り込む。雨あがりの日、草の匂いが鼻につく。
 余りにも伸びてしまった草をどうしていいか迷い、石畳の上壱枚壱枚にまとめてむしった草を乗せる。乾けば嵩が減るだろう。次に来た時にでも袋に詰めればいいかあ、なんて。

 洗濯し、敷物を替え、冬物をしまうとくたくたになってしまい、買い物は鮪の切り身になった。
 夕食は握り寿司に出汁巻き卵、茄子のうりもみ、大根のお味噌汁でおしまい。

 奥の部屋に西日が射すのを眺めながら、此処を台所にしてそっちを自室にするのが壱番だな、とにんまりする。
 熱い薬缶の痕を付けてしまったと想っていたとうさんの縁台を改めて見てみると、薬缶の痕にしては小さいので首を傾げる。然も白い痕は数箇所ある。勘違いをしていたのだろうか。
 試しに薄茶色のオイルを塗っていくと、白い痕は表面に乗っていただけらしく剥がれていった。

 とうに無くなってしまった家を頭に浮かべると、狭い掃き出し窓に西日が乗って綺麗だったことを思い出す。あれも父が考えた家だった。

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真赭色の傘


 表は激しい雨が降っている。傘を拡げると、真赭色が玄関の硝子から抜けてきた表の明かりに透け、いっそうやわらかな朱色に変わった。
 濡れてしまうのだからと、素足にサンダルを突っ掛け外へ出る。

 玄関の脇に置かれている大きな鉢植えは、立派な葉だけが残った。アマリリスの花を切り落とし花瓶に生け、とうさんに供えるなんて想ってもいなかった。
 其の向こうの大きな鉢植えも、大きな花をつけた。名前を知らない赫い花も、アマリリスが枯れる頃にはやはり花を落とされ、とうさんの前に置かれるのだろう。

 母の家に防犯カメラを設置しひと月が経った。これまでと異なり、家の中に変わった様子は見られない。
 数年に渡り空き巣に入られ家の物をなんでもかんでも持ち出され、疑心暗鬼が生じてしまっているらしく、今も自分のものだけ悪戯していくけれどね、と母は言う。仕方ないことだと想う。母の齢で家の物どころか自分の持ち物を全て把握するのは難しい。
 尤もとうさんは違った。家の物や自分の持ち物の数が圧倒的に少なかった。其れをひとつひとつまるで博物館の展示物のように並べて置いていた。

 いつかあたしがひとりになっても、高齢と呼ばれる齢になっても、「平気。」。ぽつんと放った言葉が真赭色の傘の内に包まれていく。
 伍月。雨はもう冷たい雨ではなかった。

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