例えば秘密のノートに記すように。

cancion-de-la-abeja(みつばちのささやき)          

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何もないと想える日


 付き添いの席に座っていても不安はなかった。心電図は壱定の数値を示していた。
 救急車が到着したのは、母の家から遠く名前しか知らない町の病院だった。かかりつけの医院は今日は整形外科の医師が不在、近くの大きな病院は混んでいたそうだ。到着した病院でも電話を受けた医師の断っている声が聞こえてきた。

 母に骨折は見られず、寒さで血流が悪いのと神経にさわっているところがあるのかもしれないが検査に異常はないとのことで点滴だけで治療は終えた。
 医師も看護師もやさしかった。タクシーまで手配してくれ、此処がかかりつけだったらなあと想ってしまった。

 やさしい人は話がわかりやすい。相手の事情を呑み込み、其れに合わせ行動する。其の行動は相手がすっと行動できることに繋がっていく。此の方がいいだろうと云う自分勝手な親切と異なり、相手の立場になって動いてくれるのだ。
 何にもないと想える日。其処にやさしい人がいた日。

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みつかったもの



 其れは引き出しに入れた小さな箱にちゃんと納まっていた。ただ、片方だけになってしまった鰐のイヤリングや陰陽図の指輪を置いた薄紙の下になっていて、ずっと気付けずにいた。
 手渡しで貰ったミノトールが描かれたピックは使い込んだ跡がよくわかる。角が欠けたり表面が剥がれたりしている。持っていた人の呼吸が刻まれていると想うと、傷痕は愛おしいものに変わる。そのことを想像させてくれる人を愛おしい人間だと想わずにいられなくなる。

 此の間から眠りが少しだけ違ってきた。
 力を蓄えよう。みつかったものひとつひとつがあたしを支えてくれる。

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アコースティックギター


 Takamineと記されたギターケースの小物入れを開くと、保証書とシリアルナンバーが記載された用紙が入っていた。絃を緩めギターを布で丁寧に拭く。黒いボディは傷が目立つ。わけもわからずに泣きたくなる。
 拾弐絃のギターも、おそらく初めて手にしたと想われるギターも、・・・も壱本づつ同じように絃を緩め丁寧に拭いた。とうとう弾けるようにならなかった自分のギターも一緒に壱箇所にまとめる。
 黒いギターの話をしてくれたことをどうしても思い出す、と話してくれたプロの方に黒いギターは引き取ってもらうことが決まった。アーティストのサイン入りの自分の小振りなギターと彼が近年よく使っていたリトルマーチンの弐本だけ手元に残しておこうかと想う。そう考えても過去に引っ張られる。だめだなあと想う。けれどそれだけ倖せな場所にいたのだなと想う。

 これからも倖せになって。そう言いギターケースをひとつづつ壁に立て掛ける。そうしたあとで、エレキギターが無いことに気付く。他に残っているケースにはみな戴いたベースが入っていると想っていた。
 整理はまだ終わらない。数拾年の日々を駆け足で歩み直しているところ。

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赫々と


 割と大きな粒の苺。うんと小粒のトマト。手提げ袋から赤が覗く。
 遊歩道の角のゆきやなぎがちらほらと花をつけた。
 季節は移ろうとしている。

 ゆきやなぎやレンギョウをみつけては、此れ何?と毎春尋ねてくる彼に、曖昧な笑顔で応えていたあたしを、彼はちゃんと見ていてくれただろうか。
 出逢ったのも、ふたりで黙ったまま道を歩いたのも、動物園に行こうと誘われたのも、想えばみな春だった。
 苺とトマトのきれいな赤に、ふとそんなことを思い出す。

 最後に彼の隣に置いたのは、珈琲豆と赤いギターピックに赤い地に白でハイビスカスが描かれたアロハシャツ。
 あたしの最後に隣に置いてくれるなら夏ならのうぜんかずら冬なら椿、と口にしていたあたしを彼は何を想い聞いていたのだろうか。
 聞いていないようで聞いていてくれる。そのままを耳に入れてくれる。一緒にいて言葉選びに悩んだことがない相手だった。

 大きな口を開け苺を頬張れば、苺が赫々とまぶしい命を教えてくれる。

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心象(弥生、ブラックバード)


 黒い帽子に黒い上着、黒のタートル、黒のスキニー、それから黒い靴に黒のリュックサック。足が橋にかかったとき飛べそうだと想った。
 いつも何処ででもあたしは鳥の声で泣きたい。森は森、風は風、と胸に記したい。

 あまい菓子の置かれた温室では、なぐさめの言葉で胸を抉る悪気のない花が咲き誇っている。
 何かを引き寄せるためだろうか。それとも香りを誤魔化すためだろうか。籐籠には口いっぱいの香水の瓶が。そして傍には見るからに高級そうな椅子がひとつ。

 昨日壱日かかって集めた黒すぐりの実を、なんで香水と交換できるだろう。
 光は光、夜は夜の場所。掴めぬ輝きで口を閉じている。其の奥にはやさしい眼があり、あたしを促す。
 お行き。きみは或の透き通るような処へ。空は空、野は野、であり続ける処へ。

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