視線
2024, May 18
壱日佰枚印刷し、述べ千陸佰枚程の寫眞を収めた陸冊余りのアルバムができあがった。フイルム寫眞を足したら何枚の寫眞になるだろう。彼とあたしと、どちらが寫したものか余程でない限り判断がつくもので、一緒に過ごすことがどう云うことなのか改めてわかる。
ひとりよりふたりの視線はより多角的に物を捉える。あたしの寫眞は建設物を寫したものが少ない。寫っていても景色の壱部になり、小さくてはっきりしない。何処へ出掛け何処で寫したのか、他人が見たら全くわからないだろう。自分だけが知る小さな世界。記録でなく、旅の思い出でなく、全くの日記。詩も散文も絵も寫眞も、あたしのは個人の日記だ。
「壱番奥にしまった物語」。其れを他人に話す気もなく、読んだものがわかるように書く気もなく、胸から零れた想いを残らず拾いあげようと疾走するように綴っていく。拾漆歳の頃のように。其れを書いた自分以上に読み取った彼。出逢えたことは奇蹟だった、と今にして想う。