例えば秘密のノートに記すように。

cancion-de-la-abeja(みつばちのささやき)          

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晴れた日には


 軒下に入るようになった陽射しに、先ず小さい方の亀を外へ出してみる。陽の当たる時間はまだ限られている。寒がりな大きい方の亀を出すには早いだろうか。
 久し振りに外へ出すことに心配し、猫に気をつけてねと声を掛けても、今年初めて与えられた餌に必死になり口を開ける姿が可愛らしい。上手に吞み込むには無理があるらしく、やっと目覚めたばかりの春の躯を想う。
 壱旦離れ数分後様子を見に行くと、水からあがり水槽の中に逆さに置いた植木鉢に甲羅干しをしている姿があった。
 晴れた日には、これから洗濯物や布団ばかりでなく亀たちも軒下へ出してみよう。
 冬の日、炬燵に入ったり毛布にくるまったり電気ストーブに張り付いたりしている姿も愛らしかったけれど、陽射しを浴び光を吸い込む様子も愛らしい。このまま時が動かないことを頭の隅で想ってしまっていた。

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ロイズの生チョコレイト


 封を切ると、ロイズの生チョコレイトに添えられ、気まぐれに送りますとだけ記された手紙が出てきた。バレンタインデーのお返しを買うとき、気遣って一緒に買ってくれたものを送ってくれたに違いない。特別なことを言うわけでない。口よりさり気ない行動。其れは彼がしていたことでもあった。
 カーネイションにブラッドオレンヂにチョコレイトが加わり、なんて素敵な部屋になったのだろうと卓につき珈琲を飲む。タオル掛けには彼専用だったふわふわの白いタオルが拡がっている。
 片付けと整理を再度する気になったから、あたしは元気です、と魔女のキキをなぞり口にしてみる。今日は水を汲みに行ったので明日は洗濯と布団干しをしよう。生きることを愉しまなきゃ、といつか彼があたしに書いて送らなかった手紙の壱文をなぞり口にする。
 学び直すこともふくめ学ぶことはたくさんあって気後れをしてしまい椅子に座ることが多いけれど、それでも時々は立ったり歩いたりして壱日を進めては笑う。
 チョコレイトの中身は苺味で春を告げていた。

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空間のできた部屋


 ギターがひとつづつ運ばれ部屋が空いていく。ギター半分とお礼にと言うでもないけれど洋酒や焼酎も持って行ってもらい、自身も部屋と同じように幾らかすっきりしたものの慣れない空間に胸が抉られたような痛みを覚えた。存在が消えるのを目にするとき、何故こんな気持ちになるのだろう。
 ありがとうと言い頭を下げると部屋に吊るしたカーネイションと頭がぶつかる。顔をあげると花の匂いを感じた。カーネイションはこんな匂いだったろうか。梔子のように強くはないものの、同じようにあまさの中に爽やかさやほろ苦さが感じられる。まるで今夜のためにやってきてくれたように想え、あたしは泣くのを止めた。
 彼のギターはひとつ残すことを決めている。数が少なくなっても感じる匂いはそのまま残るだろう。

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ブラッドオレンヂと春


 玄関にしても廊下にしても物が積まれて手狭になってはいるけれど、自分の家に帰れば落ち着く。好きなもので埋め、使い勝手のいいようにした空間が疲れた自分を整えてくれる。去ることが約束されている借家なのに、扉の木目や亀たちが行き来する廊下の板までいとおしい。
 昨日買わずに見送ったブラッドオレンヂが、半分の量で売られやしないかと想う。此の頃昼を待たなくとも和室に陽射しが入るようになった。或の赤いオレンヂが似合いそうで、それほど好きでなかった春を喜んで受け容れようと考えている。もしかしたら此処で過ごす最後の春になるかもしれない。例え彼と過ごした日々のように櫻でもひなげしでも見ることができなくても、想い浮かべ感じることはしてみたい。
 色もそうだけれど、味も濃厚なブラッドオレンヂに目眩さえ覚えそうな花盛りの春が重なる。枝垂れ櫻の枝を貰い家に飾った春も、満開の櫻道を歩いた春も、もう何年も前のことなのに脳裏にありありと浮かべることができる。

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白いカーネイション


 牛乳を買っていこうと帰宅する途中の店でみつけたのは白いカーネイションだった。

 白は幾度もあたしを引き寄せる。白はあたしにとり空白でなく、空白を満たすものでもない。果敢なくても確かに存在するものであり、吐息の白さの如く呼吸している。其の手に其の胸に何かだいじなものをくるんでいるよう感じられ、毅然として見える。。
 白が内包するものは何だろう。粉引のカップや麻のシャツ、紙と消しゴム、包帯、月、早朝に拡がった霧、雪の日、白髪に骨。見てきたものが記憶になりいつしか自身の壱部となり今では命と等しくなった。

 壱本を水に挿し彼の前に置き、残りは窓辺に吊るした。其れは陽の光に負けず白く輝き、自ら発光しているように眼に映る。

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