例えば秘密のノートに記すように。

cancion-de-la-abeja(みつばちのささやき)          

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いちめんの菜の花


 バスが橋に差し掛かったとき、辺りは壱面黄色に染まっていた。土手に菜の花が咲いている。
 彼と途中でバスを降り菜の花の中を歩いたのは随分前のことなのに、或のときのことをしっかりと憶えている。川辺に立った彼と近付いたうす闇の光がきれいで、想わずカメラを向けたことも。
 それからもあちこちで何度も土手の菜の花を眼にしている。
 菜の花だと想うとぽんとひとつ菜の花の野が拡がる。また菜の花だと想うとまたひとつぽんと菜の花の野が拡がる。灯りがひとつひとつ点るよう菜の花は拡がり、気が付くと辺りはいちめんの菜の花に包まれていて、あたしたちは其処に立っていた。想えばまるで夢のような光景。
 れんげ草も、金色に染まった麦も、少し前までは毎年当たり前のように見ていた。

 無くなるときはいつも突然だ。少しづつではない。消えるように切れたように断たれる。そうしてはふいに脳裏に現れる。
 いちめんの菜の花。あたしの脳裏の眼になっているのは、何故か彼。いちめんの菜の花にいるのはあたし。寫眞なんて映してくれなくてもいいよ、と春にしては暑い陽射しにふくれっ面になって。

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抹茶を溶かした牛乳


 良くなっていますよ、次は被せることになると想います、と言われ安堵する。いつものことなので他にも小さな虫歯があるに違いなく、週壱の歯医者通いはまだ続きそうだけれど、やがて此の締め括りの時もやって来ることはわかっている。
 口の中が苦い。薬の匂いと味が残っている。抹茶のケーキを食べたいな、とふと想う。
 冷蔵庫に彼が買った抹茶が残っている。天麩羅を食べるのに購入したのだけれど、其れを失敬してあたしは牛乳に混ぜて飲んでいた。或の小さな泡立て器は何処だったろうと探す。ふたりで暮らした日々はあちこちに残っていて、毎日あたしは其れをみつけ辿り、明日もそうして暮らしていくことを想う。
 毎日想っていたって毎日泣いたって、其れが何だと言うのだろう。事実が其処にあるだけだ。誰にわかろうがわかるまいが、其れをどう想うかどうするかはあたしの自由。彼のことも彼から学んだことも生かすことしか考えていない。

 疲れたのか気付くと眠っていた。
 良くなっていますよ、と医師の声を思い出すと、口の中の苦みは消えていた。

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気分を変えて


 今朝は久し振りで紅茶にした。牛乳で葉を煮出し濃いお茶に仕上げる。
 紅茶を飲みながら彼の残した薬類を整理する壱日になった。

 壱度まとめて籠に入れた薬を、種類別に分けジッパー式の袋に入れていった。塗り薬の多さに皮膚が弱かったことや、そんなふうにして病気と闘ったことや、壱日壱日生きようとしたことを想い泪が零れた。
 泣くのは彼がいなくなり悲しかったり淋しかったりするからでなく、人間の美しさに胸がいっぱいになるからだ。同時に其れと真逆と想えてしまう人たちが頭の隅に浮かび、躯のあちこちに例えようのない痛みを覚え辛くもなる。
 人が最後に辿り着くのは結局同じ場所なのに、其のことがうまく想像できない若い頃なら仕方ないと想えるが、幾つになろうが誤魔化したり保身に走ったりする者を遠くに感じてしまう。眼の前で鎧戸が下ろされる感覚。とても厭な感覚。

 彼とは喧嘩したり気持ちが離れたり重なったりといろいろ繰り返したけれど、自分を飾り立てる必要も嘘を吐く必要も誤魔化す必要もなかった。其処にあるのは怒ったり頑なになったりと、心を許した者にだけしてしまうあまえだったと想う。それはたぶん互いに。
 紅茶のお代わりをしようと台所へ行くと背後で彼の声がしたような気がした。何の疑いもなくあたしはカップを取り出し紅茶を注ぐ。彼も何の疑いもなく椅子に腰掛ける。いつもそう云った感じだった。此れをこれからも続けていこう。彼はこれからも育っていくのだろうし、あたしも育っていきたい。(ジミ・ヘンドリクスの音楽を聴いて人ってとまらないのだなと想ったことがあるのだけれど、想いってそう云うものかと想う。)

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終わらないうた


 さくらんぼや木苺のような風味、と記された春限定の珈琲豆で珈琲を淹れる。甘酸っぱさのある軽めの珈琲は春に移り変わろうとしている遅く起きた朝に合い、陽射しの入る台所で食パンを焼き朝食にした。
 新玉葱はないけれど新じゃがは袋に入っている。昼はじゃがいもを茹で玉葱と一緒にバターで焼いてみようと想う。

 押し入れの整理の見直しをはじめたものの、特に重いものを持った覚えはないのに、左腕の凝りと痛みは何だろう。首の辺りの凝りも感じる。余りいいとは言えない姿勢をとっていたせいだろうか。こんなときは好きな匂いを嗅ぐのがいい。カーネイション、ブラッドオレンヂ、白檀の香の線香、そして珈琲。
 強張った躯が水に溶けていく感覚。背泳ぎをすると耳にかぶる水が周りの音を遠くへ連れていき、このまま海月にでもなれるのだろうかと想ったときの感覚(クロールも平泳ぎもできずに、水に入るといつも足だけ動かす背泳ぎで泳いでいた)。

 珈琲の袋を新しく開けたよ、と今はあたしが彼に教える。けれど、匂いを嗅ぐと其れが逆転する。(いつからか隣には彼がいて、潮の香りでも珈琲の香りでも思い出してしまう。)
 ほら、と眼の前に袋を出されて、うんて言いながら倖せな気持ちになるのが今も続いている。

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風の谷から


 ムーミン谷はどんな空気が流れているだろう。駅のコンコースはビル風が強く、首に捲き付けた大判のストールが胸の前でひらひらと飛ぶ。階段を下り広場に出て少し歩くと振り返らずにいられなくなる。まるで此処は風の谷、そう想い肩をすくめる。強い風は生き物たちに厳しさを運ぶ。
 風が止むと谷のような広場は壱変し、辺りはおだやかな空気に包まれるけれど、其れも束の間。今度は遮るものが無く陽射しの強さに悩まされることになる。
 傍に立つ多目的施設の外を巡る通路から駅や広場を見下ろせば此処も悪くないと想えるものの、風の強さだけはどうにもならない。入り乱れる電車。何本も敷かれた線路。眼には見えないが、風も其れに似たような様子で動いているのだろう。
 たまに遠くを想う。此処を離れたいとか何処かへ行きたいとか、そんな気持ちもなく風を想うと何処からやってきて何処へ行くのだろうと考えると、遠い町想像する。同じように悦んだり泣いたりしている者を想い手を振ってみたくなる。だからと言い話し掛けたいわけでもなく、手紙を書きたいわけでもない。手を振ってそれでおしまい。それからあなたの町も花で埋もれるといいなどと想ったりするだけ。
 あと幾日かすれば、ゆきやなぎ、椿、海棠、・・・、と次々と町に花が咲き乱れる。其の匂いと風を吸い込んで、あたしはただ歩くだけ。

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