例えば秘密のノートに記すように。

cancion-de-la-abeja(みつばちのささやき)          

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ハートに風穴


 仕方ないと笑う。すうすうする胸。風穴が開いているのを感じる。

 今日黒い袋に入ったうがい薬を棄てた。治療で口内炎ができたときに使っていたものだった。壱本は手つかず、壱本は殆ど中身が無かった。盆に入る前に頼んでおかなきゃ、と言っていたのを憶えている。
 そんなものにさえずっとさわることができずにいた。さわったらさわったで胸がいっぱいになり今日も泣いてしまった。

 失うときは何故壱度で済まないのだろう。得るときは壱度なのに。其れもだいじになるほど壱瞬で。・・・と想い、失うときそうでなかったものがあったことを思い出したけれど、胸にとまったことのないものは数に入らない。

 すぐに棄ててしまう覚え書きの文字や絵が青ざめた血を流すようになった。青ざめれば青ざめているほど、覚え書きを棄てた後あたしは静かに笑っている。日本特有のことだと何かで読んだことがあるが、どうなのだろう。
 時々眺めるモディリアーニの絵葉書の人物はみな静かで、もう少し大きな複製画でもみつけたなら求めたいと想う。

 風穴は物心ついたときから胸に開いていた。けれど、今度の風穴は余りにも大きい気がして持て余している。
 此の頃あたしは本当によく笑う。

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小雨の降る日


 予報では雨が降るのは午后になってからだった。
 歯の治療が終え帰ろうとすると、ぽつぽつと降っていた。一応折り畳みの傘をリュクサックに入れてはきたが、しまったままで歩く。
 山櫻の下を抜けるとき花びらがひとつふたつと落ちてきて、此れも風流とつぶやく。黒い上着は雨粒のまるい模様をのせるだけで、濡れていると云うほどでもない。
 町を流れる小さな川に差し掛かり、橋の下を覗くと水面に小さな波紋が幾つもできていてきれいだった。其れにとても静かだ。誰も歩いていない。

 家に着き落ち着いた頃正午となり珈琲を飲む。それともちもちとした白いパンを食べる。
 「ハイジ」に出てくる白いパンてどんなだろうと想うことはあるが、調べたりはしない。わからなくてもいいことだってある。そう想うときは後でわかったりすることが多い。出逢う時間と云うものがあるのかもしれない。

 雨は止みそうにない。寒いのか亀が寄って来る。亀を抱き時間に身をゆだねる午后になった。
 静かな空間。雨音が川の流れに感じられ、時が目に見えるような気がした。

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後ろ姿


 郵便局へ行く用事がてら、ゆきやなぎに山櫻にこぶし、馬酔木、花蘇芳、レンギョウ、と壱斉に開花した町を歩く。途中ベンチに腰を下ろすと、おもむろにリュックサックから水筒を取り出し、ほらと差し出す彼の姿を感じる。毎日一緒。
 色や音や匂い、と云ったものに拘る性質。そう云う感覚を持ち是まで過ごしてきたことは無駄でなかったらしい。
 空気や間に彼が存在している。

 並んで歩くことはそれほどなかった。いつもあたしが遅れて歩いていた。
 猫と出逢い夢中で遊んでしまったり、荷物が重い陽射しが暑いと言い不貞腐れて腰掛けるところでない処に座ってしまったり、毛虫をみつけ先に進めなくなってしまったり、そんな具合だった。

 外にいるときは、彼の後ろ姿ばかり見ていたように想う。
 細い躯と姿勢のいい歩き方。ときどき逆光の中でこちらを向いてあたしを待つ彼。

 今度ばかりは随分先に行ってしまったなと想い歩いている。こう云うときは必ず何かみつけた処で待っていてくれたっけ。
 何をみつけたのかはわからないけれど、いつものようにきっと笑えるくらい素敵なものだと想う。

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水の中の太陽


 Tシャツにしては値が張ると想ったが、麻と想えば安価。夏になれば欲しくなる自分を知っている。残り少なく其れは最後の壱枚づつになっていた。黒は自分に合う大きさで、白と薄灰はひとつ大きさで、迷ったものの黒と白を選ぶ。しゃりしゃりとした感触が気持ちいい。
 もう今月は何も買えない。ひとつ齢を足した自分への贈り物になった。
 引っ越すまではどれだけ泣いても生だけを想う。徹することや夢中になることを好む自分は、自身の頑固さを決して嫌ってはいない。そうして是まで自身を支えてきたことの自負もある。

 麻のシャツを手に入れる頃になると、古代蓮を見に行きたいと決まって口にしていたかと想う。
 電車に乗り時間を掛け辿り着いた古代蓮が咲く町は、いつもいつも暑かった。蝉時雨と照りつける太陽。池の淵に立ち水の中の太陽を覗き、エリュアールの詩はどんなだったろうと想い描き小さな悲しみを掬う、そんな夏の始まり。

 彼と歩いた町にひとりで出掛ける気が無い。
 何色か見当もつかない色で記憶を縁取りそっと壁に掛ける。もたれた背は熱く、それでいてひんやりとした感触もあり、水の中の太陽を思い出す。
 重ねる都度鮮烈になっていく記憶があたしを放さない。

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山櫻


 近所の白い山櫻が花開いていた。昨年彼を映した寫眞を印刷し、壱週間遅かったことを知る。毎年か、とあれほど想っていたのに、櫻と一緒にあたしを写した寫眞が増えることはもうないだろう。
 冷凍の木苺のパイは店から消えた。最後のひとつを解凍し、半分食べる。ささやかに祝うことは忘れない。先に逝ったのが自分でなくてよかった、と想うことにしよう。

 慟哭。たぶんそんな言葉が今は合う。
 山櫻の咲く道を往く彼の後ろ姿と木漏れ日の美しさに、フイルムカメラで写したならもっときれいだったろうに、と想ってしまう。弐度とやってこない時間。そのくせ年老いて歩く彼を想像できるのだ。
 これからあたしは彼の齢をどんどん追い越していくだろう。

 何年も前の寫眞の前に立ち、往きたい、とだけ言う。そう言えばきっとまたあたしが気に入る場所を探してくれる。
 ふたりの姿が其処に無く、景色だけの寫眞が増えても話をしよう。また往きたい、と言うだけでわかってくれる人だった。彼の隣には山櫻が似合う。

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