例えば秘密のノートに記すように。

cancion-de-la-abeja(みつばちのささやき)          

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花を買うしか


 拾壱月も半ばだというのに、まるで夏のような暑さに日傘をさして歩く。黄葉した葉が光を受け辺りは黄金色壱色の世界。何処に紛れ込んでしまったのだろう、と想う。
 彼が別の場所に行ってしまってから、世界との付き合い方がわからなくなってしまっている。

 参時に彼の友人から電話があった。月に弐回ほどそう云ったことがあり、無意識のうち暮らしを意識するのか、其のときは頭がはっきりしパスタなどを茹でては食事もきちんととれる。
 此の壱年と数箇月で自分の友人は随分いなくなった。実際はいなくなったのでなく、自分の意識から消えてしまったのだ。特に友人に彼の話はしなかったけれど、あたしには欠かせないものであって、彼を内包した自分とつきあってくれた人でないと続かないのだろう。

 また眠い時間が増えた。
 倒れるように部屋に横になり時間に構わず寝てしまう。時間は計ったことないけれど、拾分だったり廿分だったりとそれほど長い時間でない気がする。
 目覚めると、躯はいつもまるくなっている。膝が鼻に近い。躯を起こすとき何も想わない。こんなとき何を想えばいいのだろう。

 あたしが失ったものは暮らしだと気付いたとき、花を買うしかなかった。そうして、あれが欲しいと彼に言い買った、木製の鏡台のきれいな脚を撫でた。

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白い空間


 朝まだ頭がぼんやりしている時間、眠気で意識が朦朧としている夜、電気ストーブのオレンヂ色の灯りがやさしい。此の電気ストーブを何処で彼はみつけたのだろう。郷愁を誘うような意匠に和む。
 緋色と銀色とで意見が分かれたけれど、あたしの選んだ銀に落ち着いた。いつも彼は譲ってくれた。色に関してあたしが煩いことを知っていたから。

 冬は白が落ち着く。
 書架もオープンラックもわずかなものを残し色数が少なくなった部屋に、銀色が溶け込んでいる。タオル掛けに掛けた白いバスタオル、白いバケツの屑籠、棚に乗った白いアイロン、・・・。耳にしんとした音が拡がっていく。其処に彼が座っているようで、あたしも自分のことをして静かに座っている。
 冬の日の白い空間。雪を待ち望んでいた。其処でまるで解き放たれたかのよう雄弁になり仔犬の如く駈け廻るあたしを、彼だけが知っていた。

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悲しみのこと


 悦びは人によってそう変わらないのに、悲しみは全く異なるものになる。どちらも感情から成り立っているものなのに、悦びと悲しみの質は何故こうも違うのだろう。
 稀に他人の悦びを妬む人がいたりして胸に痛みを憶えても、其の痛みは悦びに突き刺さりはしない。悲しみはそうでなく他人に押しやられただけでも強烈な痛みが胸に走る。
 悦びは他人の其れと一緒にしてひと括りにしても笑えるのに、誰の悲しみも孤立しているように想える。同じ体験、似た悲しみ、も、役に立たなかった。
 悲しみを打ち明けることをあたしは嫌う。打ち明けて軽くなったことは壱度もない。・・・と記そうとしてペンが止まる。うんとしか言わない夫。悲しみを棚の端に置く。其の脇に紫陽花のブローチを置いた。そうしておくだけでよかった。またそうしておくだけでよかった日々を忘れない。

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上野の森


 東京都美術館の前には長い列ができていた。壱時間近く並んだろうか。
 こんなことは初めてで、田中一村にしろモディリアーニにしろミロにしろ、是まで如何にゆっくりと恵まれた環境で画を観てこられたかを知った。
 未完の画の前で立ち止まる。其の絵の前を過ぎ去って、元に戻り立ち止まるを繰り返す。未完の筆がこれほどまで気になったのも初めてだった。此れが完成したら、と想い、拾歩にも満たない短い夢を見る。剥き出しの魂。露わな躯。夫を重ねてしまったのかもしれない。

 東京都美術館を出たのは午后弐時だった。
 国立西洋美術館へ廻ると、チケット売り場はそう混んでなく、肩透かしを喰らったような気になった。(参佰点ほどと漆拾点ほどの違いなのかもしれない。)
 睡蓮ばかり集めたクロード・モネを観られるなんてと想うだけで浮き立ってしまう。光がまぶしくて、太陽を直視するよりまぶしいのではないかと想うほどまぶしくて、目を細めてしまう。想わず額に手をかざしてしまう。

 幸福な時間をひたすらまぶたに焼き付けたく、グッズはひとつも購入しなかった。ただ何度でも思い出せるようにと、記念に伊藤若冲の「玄圃瑤華」がシールになったものを買ってきた。

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赤いダリア


 見なくなったので人気がないから消えてしまったのだと想っていた。久し振りに眼にした袋入りの檸檬カレー。此処のは量が丁度いいのもあって好きなの、とふたつ籠に入れる。最後に食べることができて良かった。それからフィットチーネの生の袋入りがあったので、此れもふたつ籠に入れる。
 どの町を離れるときも此れで最後とは想わなかった。新しい町にただドキドキしていた。

 買い物から帰るとまた出掛けた。もやもやしたときは花を飾りたい。何日振りだろう。ダリアが入っていた。

 ダリアと一緒に歩く頃には町は日暮れの匂いが雑じってきていた。日暮れは死にたくなるから歩きたくない。淋しい記憶がどっと押し寄せる。
 目を伏せることがあたしは嫌いだ。こんなときは檸檬カレーを食べることを考えよう、ダリアが水を吸い上げるところを考えよう、と想い早足で歩く。何故だろう。悲しいときもあたしは目を伏せない。焦点は合っていないけれど目は開けている。はっきりしなくても手にしているのは赤いダリアだとわかる。
 赤いダリア。血の色。あたしの躯にも流れているだろう赤い色。あたしが望もうと望むまいと開いている赤い色。

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