残像
2024, May 09
取り敢えず肆佰枚入りの用紙をふた箱と弐佰枚用アルバム参冊を買ってくる。たぶん足りないだろう。フイルムカメラを使っていたときは頻繁に現像を頼みアルバムに入れていたのに、デジタルカメラを使うようになってから全く何もしていなかった。プリンターの性能のこともあるだろうけれど、フイルムカメラで撮った寫眞に比べると見劣りする。
あのままフイルムカメラだけ使っていればよかったと想うものの、其れとは別に結構な枚数になる寫眞に、眼で見て残るものがあってよかったと想う。
誰かがいなくなることは、自分にとってもう壱度其の人と一緒に時間を進めていくと云うことだ。寫眞は瞼に残る像を刺激してくれる。像は動き出し声まで放つようになる。
或る日猫がいなくなり、暫く猫のことしか考えられなかったのは子供だからだと自分なりに解釈し、其のことを誰にも話すことなかった。残念ながら猫の寫眞は壱枚もない。自分で描いた絵ももうない。細かい模様も顔つきもぼんやりしたものになってしまった。けれど残像は消えない。瞬間瞬間があたしの内に存在している。其れが存在している限り猫と一緒にいるあたしの時間が動く。
今も猫との時間は続いている。