例えば秘密のノートに記すように。

cancion-de-la-abeja(みつばちのささやき)          

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剪定


 大きな音を立て降る雨。其の音を譚歌にし、長い軒下でゼラニュームの剪定をする。使うのは父が使っていた鉄製の剪定鋏。
 此の家に来て壱度も剪定されたことないゼラニュームは驚くほど背が高くなった。鉢植えはみっつ。特に挿し木し増えたわけでなく、いつの間にか育ったようだ。
 何度も空き巣に入られ水やりもやる気がなくなってしまったと母は言い、壱時は元気をなくしてしまっていた鉢植えの植物たちは此の夏落ち着きを取り戻し、ゼラニュームも他の花も此の夏今までで壱番花を咲かせた。

 来年も咲いて欲しい。
 雨で真っ直ぐになったあたしの髪。今日は結わえていない。髪がゼラニュームにふれる都度髪からゼラニュームと同じ濃厚な植物の匂いが生じる。だからこんな大雨の日にすることにした。
 此の家で起こったありとあらゆるものを吸い込んで育っていけ。呪うように祈る。生に執着しなくなっているのに、来年も、再来年も、其の後も、と。

 止むことを忘れたかのような雨。こんな日は永遠が見えるような気がする。

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浅い眠り


 死の匂いのする夢は今もときどき見るものの、理不尽な扱いを受けているような夢は此処数年見ていないのではないか。そんなことを想いつつ参日続けて見た夢の内容を思い出していた。

 昨夜は母が出てきた。家の中を歩いていた。家の中を歩けるくらいには元気になって良かったと想い、彼女の為デイサービスに通う荷物を用意している自分がいた。
 かさばるものを隣室から持ってくるのは彼女には容易なことでないので、バスタオルや着替えなどは自分が持ってきてデイサービス用のバッグに毎日のように詰めていた。たいへんそうなことは手伝うけれど自分のことなのだからできることは自分でして、と言い全部はしなかった。そんな毎日の壱遍を切り取った夢だった。

 其の前は彼が出てきた。
 上半身何も身につけてなく押し入れの前で横になっているので、布団に寝せようと背後から抱きかかえている最中だった。抱きかかえながら、彼のやわらかな髪を撫でようとしていた。

 其の前も彼が出てきた。
 雪の降る寒い日だった。傍に彼がいた。建物の中なのか外なのかも判らない真っ白な光景。寒さにあたしはふるえていた。
 ふと目覚めると部屋の中は暗く未明の時間だと知った。眠っている間に汗をかいたのか、肩が冷たくなっていた。

 壱遍の映画を観ているような起承転結のある長い夢は殆ど見なくなった。浅くなった眠り。どちらにしても疲れるのは同じだが、嫌な夢を見るよりずっといい。

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恢復


 恢復と云うのは元に戻ることでなく、最悪の事態や悲しみの淵から脱したことを差すのだと云うことがだんだんわかってきた。
 走ることも跳ぶこともできるあたしの右足は、動いているとき其の刺激で痺れを感じることが弱くなる。椅子に腰掛け楽な姿勢をとると急に痺れが現れ、左足で痺れを散らすように右足を撫で事なきを得ている。

 たぶん躯も心も一緒だろう。静物にしたって同じ。色褪せたり壊れたりする。同じように見えても少しづつ変化している。
 古びて趣を感じるようになった机に、傷んだ箇所を直して味が生まれた籠に、美しさやいとおしさを抱いては彼との生活を棄てずにいる。
 右足についてはまだわからない。いつかいとおしくなったりするのだろうか。

 机の上に置いたままにしている此の夏届いた暑中見舞いの前で必ず躯が止まる。秋も深まる頃手紙は此処に転送されなくなる。
 かつて自身に流れていた時間と其処から逸れた参年ほどの時間の流れが乖離したまま一向に重なる気配を見せない。不義理をごめんなさいと頭を軽く下に動かし葉書きを書架の隅に移す。
 明日明後日と此の時間も変わっていくだろう。壱度感じたやさしさはきらきらとしたままで。

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横道


 昨日から病院の面会の仕様が変わったと知らされる。壱週間に壱度の予約から空いていればいつでもできるようになったのと、時間も拾分から廿分になった。電車やバスがあれば毎日のように面会できるのだろうが、と想うと複雑だがこれまでのように必死にならなくても済みそうだ。
 自分の速度を超えた翌日起きて布団から出ると足首の後ろに違和感を覚えるようになった。暑いと頭の中が早くと云う気持ちで溢れ自転車でも徒歩でも飛ばしてしまう。外に出てもゆっくりとと想える日を待っている。

 彼と自転車で走っていたときは壱日乗り廻しても疲れることはなかった。あなたといると廻り道ばかり、とときどきあたしがふてくされてしまうほど横道に入ってばかりの人だったけれど、思いがけない光景にひと際悦ぶのは自分の方だった。
 涼しくなったら今度は自分が横道に入っていきたい。そして、みつけたよ、あたしも、と彼に教えたい。

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耳の周り


 母が入院し伍箇月が過ぎた。
 もともとひとりで遊ぶことが多かったけれど、此処に来てともだちに連絡することもなく、看護師さんや近所の人と挨拶を交わしたりいとこたちとたまに逢ったり電話したりするくらいで、あとはひとりで過ごしている。

 東京から地方に引っ越した頃はまだ言葉は雑踏から生まれるものだと想っていた。耳に入る人の話し声。其処で生きている言葉を拾ったりしていた。
 今はしんとしている空間から言葉が聞こえる。物言わない物に言葉を拾っている。
 子供の頃と一緒だ。極端に内気で人見知りで神経質で家族にも気を遣う子供で、猫とばかり過ごしていた。物の色だの質感だのばかり気にして見ていた。或の頃言葉を使うことを知っていたなら言葉を拾うことができただろう。

 言葉を使うことは覚えたものの使えるとまでは言えず、拾える言葉が限られてしまっていることを残念に想いつつしんとした空間に進んで身を置いている。
 聞きとれない言葉をそのうち聞きとれるようになったら、と想い。

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