例えば秘密のノートに記すように。

cancion-de-la-abeja(みつばちのささやき)          

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幸福な朝


 キリマンジャロの袋を開けた朝、倖せになった。
 キリマンジャロの香りがふたりの基本の珈琲の香りだった。彼がそうしていてくれたように、はい、と言い彼の鼻に袋を近付ける。
 電動のミルを使っていたときはわからなかったが、キリマンジャロの豆は硬く、手動の珈琲ミルを抱くように持ち挽くことになった。壊してしまった或のミルだったら泣いてしまったかもしれない。
 湯を注ぎ、ほら、と彼に声を掛ける。ふくらんだ珈琲にひとりでに頬がゆるむ。
 珈琲ポットに落ちたキリマンジャロは苦い味がした。ひと口飲んだあと、昨日まで飲んでいた珈琲は比べるとあまいけれどどっちもおいしいよね、と彼に同意を求めると頷きはしたが、キリマンジャロは最高だと想っているのが顔でわかる。
 満ち足りた朝、彼の横で林檎も満足そうに赤く輝いていた。

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発光


 弐台の軽トラックがやってきたかと想うと、上下に分解すればいいだけなのに外れずに困っていたリクライニングチェアも、分解するのに工具の選び方さえわからずにいた自転車弐台も、例え分解できても長さが規定を超えてしまい塵に出せないスチール棚参点も、夫の手作りの巨大スピーカーも快く運び出してくれた。
 以前使用していたプリンターだの機器数点は自分で塵に出せるけれど、左腕の調子が悪く一緒に持って行ってもらった。

 数点のみ家具を残し、部屋は閑散としたものになった。冷ややかな感じはしない。其処に何度でも新たに始めようとする彼をみつけ、熱にふれたような気がした。
 熱は冷ややかでいて同時に熱い。色があるなら赤でなく、きっと白。
 新雪の上を一歩一歩歩いていくような生き方を、とテープに残していた若き日の彼の声を思い出す。瞬間耳に鳴ったROSSOの歌。「散らばる光たちは生きていると思う」「どこかに強い意志を持っている発光」
 散らばる光たちは生き続けていると想う。そうつぶやけば、胸の内に狂おしいほどの発光があった。

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じっとしている日


 雨が降る。
 痛みは突然襲ってくる。
 痛みと云っても最初ははっきりとわかるほどの強いものでない。それまで痛みがなかったのでなく、少しづつ時間を掛け躯が凝り固まり、ここまで気付くことなく過ごしてしまった。痛みはいつも気付いたときからだんだん大きくなる。或る程度の処で止まってはくれるが、引くのには結構な時間を要する。

 蜜柑を食べようか、林檎を食べようか、今日も想いながら口にしなかった。
 ひたすらじっとしている、そんな日。撫でられることが大好きだった猫の気持ちがなんとなくわかる。

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ぷちぷち


 緩衝材で乾燥花を包み段ボール箱に入れていく。リースは適当な箱に入れ、隙間に布製の手提げ袋を詰めた。砕けたなら砕けたで、損傷の軽いものを拾い集め硝子瓶に納めればいいだけのこと。
 それにしても、これだけで大きな段ボール箱が埋まってしまうとは想わなかった。

 テレビ用の箱がないと知ったときは焦ったけれど、毛布に包めばいいとわかりくすくす笑う。にゃんとかにゃるさあ。人形を詰めた箱に落書きをして舌を出す。自身で自身を励ますことは嫌いじゃあない。
 休憩に珈琲を口にしながら、気泡の緩衝材の端を抓んで押して潰して遊ぶ。ぷちぷちと鳴る音が小気味いい。
 明日からはレッド・ホット・チリ・ペッパーズのスカー・ティッシュでも聴きながら荷造りしようか。

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波間


 彼の後を追い自転車を走らせていた。道の先はみっつに分かれている。中央の道はトンネルだった。
 左に寄る彼に合わせ左に寄ると、間違えたのか彼はハンドルを切り右へ寄ったが、後方から車が近付いてきたのであたしはそのまま左を走った。車は弐トン車程の大きな車両で彼が見えなくなる。
 車が行ってしまうと、あたしは途方に暮れた。彼がどの道を走っていったか判らない。自転車を止めわんわん泣いた。泣きながら、きっと戻ってきてくれると想っていた。

 夢を見ていた。目覚めて時計を見ると午前参時半を廻ったところだった。其の後漆時半まで眠った。
 心は絶えず波間に浮かぶ舟のようにゆらいでいる。
 昨日買ったチョコレイトの包みを開けた。ネーブルオレンヂのピールが入ったかすかに苦さと酸味が加わった味が口の中でゆっくり溶けていく。
 備わるものが備わっていない舟と櫓で渡っていくには海は廣すぎて、不安に襲われることがある。

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