例えば秘密のノートに記すように。

cancion-de-la-abeja(みつばちのささやき)          

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黒い服


 昨夜またふいに眠れなくなった。
 朝になり布団から抜け出すときは重い気分だったのに、黒いシャツと黒いパンツに着替えると落ち着いた。

 外は風があり、櫻の花びらが舞っていた。・・・短かったな、なんてつぶやいたあとで、此処では染井吉野しか咲いていないことに気付く。
 此処に来るまでは、緋寒桜から始まり、山櫻に染井吉野に枝垂れ櫻と来て、八重櫻にウコン櫻で終わっていく春の初めだった。そして、其処に彼がいて、あたしがいた。

 病院で出されたアンケートの相談相手の箇所には、いないに丸をつけておいた。いないわけでなく、相談すればみな応えてくれるだろうけれど、相談相手が欲しいわけではなく、彼のようにわからないところを的確に教えてくれる人がいたらいいな、と想ってしまったのだ。
 励ましも慰めも要らない。迷いや悩みならひとりで答をみつける。わからない問題に淡々として力を添えてくれる人を自分は欲していたことを知る。

 明日も黒い服に身を包もうと想う。静謐なものを傍に置いておきたく。

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春だったね


 午后弐時を過ぎ雲の切れてきた町。部屋に西日が射したのを合図に小さな白い箱を開く。箱には小さなシールが貼られている。箱には店の名も入ってなく、シールに押された日付の下に小さく店の名が記されているだけの簡素さが品よく感じられる。
 選んでいたときには気付かなかったが、桃のケーキの端を飾っていたのは生クリイムでなくバタークリイムだった。クリスマスになると彼がバタークリイムのケーキ、其れも薔薇の花の乗ったケーキを食べたいと言っていたのを思い出す。彼には苺のケーキを出したけれど、どうぞ、とバタークリイムの乗った方を彼に向けて差し出す。彼は此の町のケーキ店のケーキを食べたことがあると言っていた。自分には其の記憶がない。

 古くからあるらしい町のケーキ店のケーキにしたのは、ひとつは嫌なことが終わったことに区切りをつける為、ひとつは彼と一緒にしたかったことをする為。
 出逢った日もふたりきりで歩いた日のことも動物園に誘われた日のことも、はっきり憶えていない。ただ、ひとつだけ。あれは・・・、あれも、あれも・・・、春だったね。

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深呼吸


 集中治療室に入ると、口に当てた酸素吸入器がとれて鼻だけチューブに繋がれた母が目を開けベッドに横たわっていた。声を掛けると口元が動く。何か言いたげだけれど声が弱く聞き取れない。耳を近付け何度目かにやっと聞き取れた言葉に目が点になった。
 ・・・め。・・・し。
 おそらく食事は?とかご飯は?とか言っていたのだろうが、伝わらず終には飯になったのだろう。それにしても口が自由になったからと言い、いきなりご飯を心配するなんて。いとこが、うちの親族は生命力が強いから、と言っていたのも頷ける。

 帰りは周り道を土手を歩いた。橋を潜り抜けた処に植えられていた櫻も満開になっていた。来年も観ることができたなら今度はゆっくり観ることにしようね、と彼に語り掛ける。手には途中畑で失敬したつくしが・・・。
 帰ると塗り絵の続きをした。仕上げに2Bの鉛筆を使い背景の半分を黒く塗っていく。牡丹の葉にも鉛筆を入れる。塗り絵もだんだん自分の描く絵に近付いてきた。

 此の身に春を刻むよう、久々に深く息を吸い込む。

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黄水仙とアマリリス


 菜の花は散り終え椿だけになった藍色の花瓶に黄水仙を足し、鳳凰だか孔雀だかが描かれた紺色の花瓶には背の高い桃色の花ときいろのアマリリスを活け、水仙も弐本添えてみた。
 ほら、と彼の前に藍色の花瓶を置き、とうさんにも、と紺色の花瓶を傍に置く。

 今朝見たら、うちのアマリリスの莟がひとつ増えていた。
 ひとつと呼んでいるけれど、ひとつから花が幾つも咲くのでひと塊の莟と言ったらいいのかもしれない。濃いオレンヂ色の百合に似た大きな花は見事で、其れが花瓶に葉と一緒にひと塊どーんと云う具合に活けられているのを初め見たときは、母の性格そのままと想ったこともあり笑ってしまった。

 今日の面会では、呼吸が安定してきて、目を開ける時間が長くなり、呼びかけに反応するようになった母がいた。
 まだ予断を許さない状況でもあるけれど、良くなってきている状況でもあり、あたしは眼の前の母に集中する。

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雨天決行


 バシャバシャと大きな音をたて降る雨。
 いっとう歩きやすい鹿さん(と呼んでいる)の黒い布靴とリュックサックで家を出る。病院まで徒歩廿分。近くもないが遠くもない距離。傘は夫の使っていた折り畳み傘にする。重ねてたたんだビニイル袋も持っていく。
 集中治療室のベッドに横たわる母に看護師さんが呼びかけると、今日は薄目を開けた。拾分も持たずまた目を閉じ眠ってしまったけれど、あたしが来たことがわかっただけでも昨日からするとかなりな進歩だ。

 帰宅し払渡請求書の作成に取り掛かるが、何せまる肆年分だけありなかなか進まない。休憩に珈琲を淹れ、母に貰った孔雀の塗り絵で遊ぶ。
 羽を赤や黄で塗った母の孔雀は虹色の鳥になり、見ていると愉しさに笑ってしまう。大人で母のような塗り方をする人は珍しいかと想う。
 あたしが色をつけていく孔雀の羽は青や緑や黄で、母の孔雀のような愉しさはないだろう。けれどあたしにしては随分華やかさがあるものになりつつあり、こんな色使いもできるではないかと自身で自身の頬を指先で軽く叩く。

 どれもこれも今日中には終わらない問題。
 雨音が心地いいので、気にせず進んでいく。

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