例えば秘密のノートに記すように。

cancion-de-la-abeja(みつばちのささやき)          

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静かな日々の階段を


 季節が移ろう都度想うのは彼のこと。
 えんじ色のストール。墨色のリュックサック。見上げていた樹木の先の赤く色付いてきた葉。田舎の村で生まれた子だからと言いあたしが草花の名を全て知っている筈もないのに、見慣れない植物を眼にすると名を問うてきた彼。
 〇〇ちゃん。あたしを呼ぶ声に目線を移すと、手招きしている彼の姿がある。何かの実か、川に浮かぶミドリ亀でもみつけたんだろう。

 他人は夢だと言うかもしれないが、あれからもあたしは彼に逢っている。
 数の減った彼のギターにレコードに書物に衣類に・・・。無くなった彼の部屋。
 同じではないものの、同じように暮らしている今日。ぷつりと途絶える其の日まで此の先も同じように暮らしていくのだろう。

 全くそう云う気はない、と返事をしたら、ダンナさんがやさしかった人はずっとひとりでいるのよね、と言われた。
 毎日会話しているなんて自分にしかわからないこと。
 此のおだやかで静かな日々以外何もいらない。

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果実


 小粒の蜜柑はあまくもなかったけれど酸っぱくもなかった。青ときいろが交じる蜜柑を父と彼にひとつづつ渡す。林檎はあとで貰って食べよう、とそのままにする。
 蜜柑を前に思い出すのは、うちの子は蜜柑が好きで、と正月用に買ってきた蜜柑の箱の中身がひとつふたつになっていたのに家族の誰も気付かず、来客に蜜柑を差し出しながら苦笑していた父のこと。それからあたしが酸っぱいと言う都度横半分に切ってと強請っていた彼。そうして果汁を搾りお酒に入れていたこと。

 誰も手入れをしないので、たぶん伯父の栗の樹は実をつけなくなったのではないだろうか。葡萄でも蜜柑でも柿でも同じようだろう。
 例えば、もう弐度と口にすることないと想われる或の柿。あれなら食べられた或の硬い柿。瞼の裏でもなく脳裏でもなく胸でもなく、傍らにぽんと浮かぶ。ふれようとしてもふれられない、それなのに明るさと温さを持ちあわせている灯りのような数々の果実。

 いちめんの果実、いちめんの果実、いちめんの果実、・・・。
 そっと言葉にしてみたら、傍らにぽんと現れた猫が腹を上に寝転がりにゃあとあたしを呼んだ。

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衣替え


 突然寒くなった朝、引き出しを開け長袖の下着を選ぶ。
 外は雨。目覚めたときから耳の内側が気持ちいいのに、何故かため息が出る。寝不足もあるが、秋冬ものを出す為家の中を変えないとと想うとため息が出る。面倒なのでなく、母の衣類をどうしようか考えると、此の夏は一緒に家で過ごせなかったことを残念に想い手が止まる。
 決して相性がいいわけではないけれど、せっかく忌々しいことが去り落ち着いて一緒に暮らし始めたところだったので、夏と秋も一緒に過ごしてみたかった。することは決まっていて、帰省したときと同じだろうけれど。衣替えもそのひとつだった。
 寒がりな彼女。母がいたら昨夜は慌てて炬燵とセーターを出したろう。
 茣蓙のラグも取り替えないとと想っているうちいつのまにか横になり眠ってしまっていた。風邪をひくよ、とそんな声で起こされることもなく、目覚めるととうにお茶の時間を過ぎていた。

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土をさわる


 土をさわる。爪が真っ黒になる。昨日から穿いている墨色の綿のパンツにもあちこち土が付いてしまった。
 弐、参日放っておくと鉢植えの中は爆発したように多種の植物でいっぱいになる。芽を出すばかりか、驚くほど茎を伸ばす。最初に植えられていた植物だけにしようと土をいじると、太い根が現れる。芽をみつけたら摘むようにはしているけれど、これでは追い付かない筈だ。
 空も海も或る程度遠くまで見えるのに、地中ときたら表面だけであとは全く見えない。土の中で育っているもの。土の中へ埋まっていったもの。夥しい数の植物の根に昆虫に、あたしが愛した猫たちに、失くしたビー玉、落としてしまったお菓子、・・・。
 茹でて食したじゃがいもからは少しだけ命と悲しみの匂いがした。

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寒露となり


 風がきんもくせいの香りを運んでいる。何処に花が咲いているのかはわからない。坂道の途中では花をつけたせいたかあわだち草がをみつかり、嗚呼、すっかり秋だ、と想った。
 昨日の夕空はあんなに朱い色をしていたのに、と後ろを振り返る。川の土手からは曼殊沙華が消えていた。

 家に着く頃にはすっかり陽が暮れていて、玄関先に置いてきた亀たちにごめんねと言いながら自転車を立て掛けた。センサーライトを頼りに鍵を開けリュックサックを家の中へ放る。
 内玄関と外玄関の灯りを点け、外の物干し竿に干したタオルを取り込む。次からは面会に出掛ける前にしていかないとと想いつつ。

 日が短くなってもあたしの夜が長くなることはない。日暮れに星を探し、玖時に眠りにつき、明け方に起き出してはまた星を探してを繰り返す日々だろう。
 ただ日が短くなると灯りがいとおしくなるのか、これまで浴室に電気を点けず脱衣所から漏れてくる灯りで入浴を済ませていたのに、此の頃は電池式の蝋燭を持ち込んでいる。

 此処に越してきて初めての秋。彼を散歩に誘うべく、自分と彼のストールを引き出しに探す。

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