例えば秘密のノートに記すように。

cancion-de-la-abeja(みつばちのささやき)          

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真似ること


 冷たい雨の降る中、のし餅が届く。思いがけない好意に手を合わせると共に、そんな季節になったことを改めて想う。
 硬さを確かめ包丁を入れる。包丁は水で濡らした方が切りやすいことを初めて知る。
 端の途中までになった肆角にならない餅は細く切りあられ用にし、大きな紙の上に拡げる。あとで弐階に持っていき干せばいいだろうか。此れは母がしていたこと。肆角に切った餅は適当な枚数づつラップで包み更にビニイル袋で包み輪ゴムで止め冷凍庫に入れる。此れは夫の母がしていたこと。これからもあたしは其れを真似ていくだろう。
 相手の存在や縁の有無などたいしたことでもなく、真似た指先が消えない想いを自分に伝えている。
 試しに焼いた餅はやわらかく、遠い記憶が蘇った。臼と杵と父の大きさ、其の横でできあがった餅に餡を詰めていた母。小皿をふたつ用意し箸で小さく切った餅をのせ父と夫に持っていく。反応する彼らの声が聞こえてくる。

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記憶


 元は伯父のものではなかったかと想う合皮の黒いジャケットを羽織り、地図を見ながら朝の町を歩く。回覧板に入っていた公民館の清掃のお知らせに、どの公民館かと問いを入れたほどわかっていない。公民館に掃除道具は置いてあるだろうと想ったが、軍手の他に乾拭き用の雑巾をリュックサックに詰めてきた。
 時間丁度に着くと、其処には班長さんがいた。此の辺掃いておいたが、あとはきれいになっているのですることはないんだよねぇ、と言う。もう壱軒いらっしゃたようだが既に人影はなく、せっかく来てもらったのに、自分は何もせずに、と笑って終了となった。
 期日を憶えていたのはどうやら参軒。真面目だと言われてきたことを想う。そこには感心ばかりでなく揶揄もあったが、これで信用を得てきたのでいいではないか。

 それほど人は記憶しないし、正確に記憶もしない。自分も記憶が抜け落ちてしまったことの方が圧倒的に多い。そして人は自分の都合のいいように記憶すると言うが、自分はそうでもない。会話を結構憶えている。御蔭で他人の整合性を疑ってしまったりもする。自分にはたかが半年前に過ぎないのだが、人により半年も経つと改竄と言えるほど事実と異なる記憶を口にする者もいた。
 父や夫の記憶は自分と似ている。そう云う環境も大きかったと想う。
 自分の都合よくでなく、あたしはできるだけあたしをそのまま憶えていたい。あなたのこともできればそのまま憶えていたい。

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利点と欠点


 玄関から続く長い屋根とコンクリートで固められた地面は、物を置いたり作業したりするのに都合よく、天気も関係ないので助かる。
 欠点は日当たり。浴室と縁側は問題ないけれど、和室に陽は殆ど入らない。外に置いた鉢植えや亀たちの水槽も壱日に壱度場所を替える必要がある。それと今日のような強風の日は落ち葉や埃がコンクリートの上に溜まり、何度も箒を持たないといけない。ただ自分は其れが嫌いでなく面倒でもない。
 欠点以上に欠点と感じてしまうものは、自分が好まぬものや苦手としているものに等しい。そんなところだろうか。
 何度目かの箒を手に、そろそろ新しい箒、竹箒とかそう云うのもいいなと想った。

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セーターの本を拡げて


 曇った空に弐階で過ごすのをあきらめ、亀たちと寒がりな鉢植えを自室に招き部屋を暖める。足元にはブランケット、机の上にはカフェオレとクラッカー。セーターの本を拡げる。
 細い絲で編むのは時間が掛かる。ましてや編むのはあたし。母の編んだものが残ることを想えばもう壱枚も編まなくていいかとも考えるけれど、そのうち編めなくなる日があたしにもやって来るだろう。
 面倒なことも重い物を動かすことも今のうち。複雑そうな模様編みの頁に栞を挟んで閉じた。

 彼を想うことで生まれるほんの少しの気力でこうしていられる。これから死ぬまでこのままではないかと想うけれど、減ることはなさそうなので此の気持ちに身を委ねていよう。

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現状


 来ましたよ、と声を掛けると、本当に嬉しそうな顔をしいきなり、可愛い可愛い、とあたしに向かい母が言う。かあさんも可愛いよ、と言うと、本当に可愛らしい、と何遍も言うのでどう応じようかと想っていると、幼稚園に行くの?と訊かれ、今日は母の中で自分は幼稚園児になっていたことを知る。
 すぐに、行くよ、と応えると、いってらっしゃい、と言う母に、まだ時間になっていないの、と返す。
 理解力はあり、こちらが合わせれば彼女と会話は成り立つ。またこちらが家のことなどを話すと、それなりのことが返ってくる。現在の状況が把握できなくなっているらしい。
 元に戻ることはないだろうが、おだやかに過ごしていてくれればいい。母の記憶から抜けても、忌まわしい記憶は未だに自分の胸を抉り続けている。

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