例えば秘密のノートに記すように。

cancion-de-la-abeja(みつばちのささやき)          

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ビニイル傘


 雨の中を歩く。梔子は昨日よりふたつみっつ花開いている。
 上下黒と上下白の衣服を交互にまとうのが好きだったのに、黒しか着られなくなってしまった。それでも白には眼が行く。外に出れば梔子の花を探してしまうし、普段珈琲を飲むカップは乳白色と決まっている。

 此の間から彼の半袖のTシャツを着るようになった。
 中でも弐枚本当にさらさらとした生地が気持ちいいものがあり、色も同じ黒でも光沢がありとてもきれいだ。
 同じ綿でも絲の織り方が異なるのだろうか。着る都度撫でてしまう。

 昨日またわんわん泣いた。
 頭に浮かぶひとつの光景。其れにふれると泣く。泣けばかっと熱くなった心が落ち着く。幾度も其れを繰り返している。
 繰り返すうち、それでいいと想うようになった。少なくとも、其れに慣れてしまうのは、恐ろしいことだと想えて仕方ない。
 いろいろなことに慣れてしまいたくない。神経質でいろいろと慣れないことに困っていたけれど、数えれば慣れてしまったものの方が圧倒的に多いと想う。

 「おはよう。」と言い彼の前に立つとき、毎朝新しい自分であったらいいと願わずにいられない。
 大きな透明のビニイル傘に彼の後ろ姿をみつけたような気がして、同じようにあたしも歩いた。

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入梅


 遅い梅雨入り。やっと梔子の花が咲く。かすかな匂いはまだ気付かないほどで、知らずに通り過ぎてしまうところだった。
 壱本だけ買ってきたとうもろこしを早速茹でる。其の後電子レンジで焦げ目をつけ、ふたつに切り分ける。だいぶ大きさが違う。小さい方を小皿にとり彼に昼食だと言い差し出す。
 歯を立てるとあまいかほりと味が口の中に拡がる。

 また夏が巡ってくる。壱瞬のかほり。壱瞬の波。壱瞬の花火。壱瞬の光景。壱瞬の表情。尽きることない想い。
 陸月になり冷蔵庫に炭酸水を常備するようになった。淡くはじける泡に顔を近付ければ猫にでも金魚にでもなんでも逢えそうで、真夜中でも明け方でも関係なく起きて冷蔵庫を開けてしまう。

 暗い台所で、耳を清まさなくても聞こえてくるのは雨の音。
 何処へ流れていくのだろうと想い明かりもつけずに立ち尽くす。今、あたしの傍で流れているのは時間だと知っていても。

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お弁当箱


 試供品のティーバックの紅茶を今朝も慎重に淹れる。ローズヒップにハイビスカスを組み合わせた紅茶はよく目にするけれど、そこに乾燥黒すぐりやブルーベリィを加えた紅茶は初めてだった。
 硝子のティーポットが見事な薔薇色に染まる。見た目にも濃い味と想える紅茶は酸味が強く、冷まして氷を入れたら夏にいいだろうなあ、と想い微笑む。

 今日は食器の最後の整理を、と始めるとやはり躓いてしまった。弐段になったお弁当箱は自転車で出掛ける際必ずと言っていいほど使っていた。
 名前を覚えるのが苦手なあたしは、町の名前も川の名前も森の名前も公園の名前も言えない。或の赤い芥子の花も、土手を埋めていた百合の花も、川の水の冷たさも、メダカが泳いでいたことも、川に足を浸そうと彼が靴下を脱いで見せたまだ焼けていない足の踝の形も、・・・、鮮やかな記憶となり瞼の裏にしっかり残っているのに。

 昨夜も夢を見たのは、きっと弐日続けてご飯を炊くのを忘れたからだと想う。此処に越してくる前の部屋だった。袋から釜に米を移していた。其れが何故だかうまくできず、自分は風呂に入るけれど・・・、と彼に心配されていた。
 食器の整理を、と想ったのも、そんな夢を見たからかもしれない。

 紅茶はいつものように壱日分淹れ、覚めた頃コップで飲んだ。
 ふたつ揃えたリトルミイとピンクの水玉の柄の小さなコップは、暫く使っていなかった。彼が水を飲むのに丁度いいと言っていたコップは、今朝淹れた紅茶の味にぴったりだった。
 もう森へも川へも湖へも行かないと想うのに、お弁当箱は当然のように棚に戻された。

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黄金色の林檎


 嫌な気持ちがどうにも治まらず彼に供えた林檎を戴くことにする。
 黄金色の林檎は実が硬かった。歯を立て嚙み砕く都度気持ちが収まっていく。息を吐くと自分に入り込んだ悪いものが壱掃された。

 愚痴は他人を疲弊させる。壱種の暴力だと想う。
 父も彼も愚痴を言わなかった。後から想うと、一緒に遊ぶことをしなくなっても友人だと想っている人も然り。
 愚痴を言わない。それだけでも他人を倖せにする。

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小さな変化


 朝起きて洗顔後、なんとなく手入れしてみようと云う気持ちになり、爪化粧をほどこしてみる。足は薄紅、手にはベースコートの透明色で色を付ける。
 郵便受けから新聞を抜き、洗濯機を廻し、珈琲を用意し湯を沸かしていたとき、流しの横に置いたステンレス製の伸縮ラックの錆が気になり掃除を始めてしまった。
 気になったら始めてしまう。以前からそう云うところがあり計画性に欠けると想っていたけれど、其の性質のようなものがだんだん強くなってきた気がしないでもない。

 ラックの錆は満足のいくところまで落ちたものの、爪に弐箇所薄っすらと線が入ってしまった。剥がれ落ちてはいないので気にせず珈琲を淹れ、卓につこうとしはっとなった。
 改めて見ると白い脚。焼けた腕。手の爪と足の爪が全く同じ色に見える。

 成人したあなたが想像できない、と数人の友人から別々に言われた拾代の終わり。齢廿辺りから細胞の壊死が始まるのだと何かで読んだのは丁度其の頃。意識に入り込んだ壱日生きる毎に死へ向かっていると云う感覚。其れを奥の方へ閉じ込めて過ごしてきたけれど、今となっては無理は感心しない。

 ゆっくり息を吸う。自分の小さな変化を受け止める。記憶は引き継がれるものの、昨日の自分と今日の自分は同じではないのかもしれない。

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