例えば秘密のノートに記すように。

cancion-de-la-abeja(みつばちのささやき)          

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じゃがいもの感触


 雨は烈しく、母の家に着く頃には傘も靴もすっかり濡れてしまった。
 靴下を脱いで家にあがる。

 家の中が蒸している。雨天のせいだけでなく、コンロにかかった鍋から湯気が出ている。父に挨拶し母の処へ戻ると、更に湯気があがっていた。鍋の蓋が取られ、できがったものが皿に盛られていた。
 いとこがあたしへも分けると話していたじゃがいもと同じじゃがいもだろう。父も夫もじゃがいもは好きだったな、と想い頬張る。頬張る先からほろっと崩れていく。なつかしいような安心するような感触。陽だまりを思い出す味と匂い。口の中で記憶が溶けていく。

 改築が済んで新しく台所ができたならポテトチップスを作ってみよう。
 猫さえポテトチップスが好きだった。猫にはいけないのだろうけれど、そっとそっと出してくる可愛らしい手が愛おしい。

 ひとつでは足りずふたつも食べてしまっていた。

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吾亦紅


 季節が違うのではと想ったけれど、吾亦紅を買ってくる。
 壱眼レフのカメラが欲しいと言い彼に選んでもらったことを思い出す。其の後山へ遊びに行った際、吾亦紅が咲く場所で寫眞を撮ってもらったことや、初心者の散歩コースと言えど半ズボンで薄野を平気で歩いたことや(育った場所の裏庭とたいして違わないなあと想い歩いていた)、親子に想われそっちが老けているだの若く見られるだのと互いに相手のせいだと言いあったことや、途中坂のきつかった場所や其処から見下ろせた景色や、下りの杉だらけの光景などが次々に浮かぶ。

 昨日整理しているとき寫眞を数枚みつけた。詩のサイトを持っていたとき知り合った男の子からもらった寫眞だった。
 彼の真っ直ぐで清らかなまなざしが好きだった。尤も顔は知らず、日記や交わした手紙にそう感じていた。

 忘れられないこと、忘れられない人。胸も辺りが温かくなって、ありがとうと頭を下げていた。届かなくとも星のひと粒に忘れられない人たちの倖せを願う。

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檸檬ティー


 今朝は檸檬ティー。今まで檸檬ティーがおいしいと想ったことはなかった。専門店の檸檬ティーだからなのか、ブレンドの具合が自分の口に合ったからなのか、此れはおいしいと想い試供品の袋を眺める。
 聞こえてくる鳥のさえずり。気持ちのいい朝なのに、少し調子が悪い。いとこから掛かってきた電話にもぼうっとして受け答えするが、普段からおっとりしているせいか余程でないと誰にも気付かれることはない。
 台所から和室に戻ると、何故かエアコンがひとりでに除湿を始めていた。漏電しているのでもなさそうだし、タイマーも使用していない。今は要らない、と彼に言う傍から眠りに落ちた。

 目覚めると「シーナ」の声が頭の中で流れていた。冷蔵庫で冷やした檸檬ティーを彼とふたりで飲み、其の後フライヤーと新聞切り抜きの整理をする。途中にしてあったのは把握していたものの、ファイル参冊分になっているとは知らず半日掛かってしまった。
 以前のはそれほど残ってなく、同じ参冊分だったかと想う。資料にしては極端に少ない。それなのに減らさなきゃならないなんて、おかしいと言えばおかしい。引き出しの何処に何を入れたかはわかるけれど、自分の頭に内容は殆ど入っていない。其れが悲しい。

 あたしは自分を作ってきたと言えるのだろうか。
 頭に浮かぶのは地平線に立つ自分。雪が降っていて辺りは真っ白になっている。家に帰ったら檸檬ティーを飲もうか、猫が待っているだろうな、などと想いつつ道無き道を歩いている。

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体温と除湿


 炭酸水の口を開けようとし、底の方に微妙に残っている牛乳のパックを思い出す。牛乳に抹茶アイスを落としたらおいしかったけれど、牛乳にヨーグルトを落としたらどうだろう。試してみると、丁度いいあまさの飲むヨーグルトができあがり、悦に入る。
 冷凍庫には買ってきたばかりのヨーグルトが入っている。凍らせて食べるのも、しゃりしゃりとした感触ととも愉しく食べられる。

 冷たいものばかり欲している。躯も疲れている感じがする。体温を測ると少し上がっていた。冬からすると漆分上がっている。
 暫く使っていなかったエアコンのリモコンを探し除湿運転をする。眠くなり意識が遠退く中、夏にしたいことを想っていた。

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好きになってよかった


 文庫本に雑誌に雑記帳にCDを少しだけ残した書架。稼働棚をひとつ外し高さのある物を置けるようにする。折りたたみ式の机はたたんで布を掛け、フックをつけ物を下げられるように。

 母が骨折してから父が亡くなるまでの陸年間いろいろあった。辛いとも想わずに過ごしたけれど、それまでの日々と此の借家に越してからの数年間を想うと、辛かったと云う言葉しか出てこない。
 逆に考えれば最悪な日々は陸年でしかなかった。其の後参、肆年心が病んでいたように想うけれど、苦痛をくれた人たちのことは忘れた。自身を守る為に何をしてもいいと云う考えは自分に無い。心の内で存在を消してしまう。
 与えられた日々は限られている。好きなことに使いたい。

 好きになった部屋。好きになった暮らし。倖せになれた自分。あと半年も此処にいられないと知り、過去を撫でる。
 好きになってよかった。どうしていけばいいか、少しはわかったつもり。
 冷蔵庫に留めたままの新聞の切り抜き。部屋の何処でも聴こえるマイルス・デイヴィスの曲。入れ替えたハウリン・ウルフの書物。止め方がわからず時々鳴る彼の腕時計。
 死にたくなったりもするけれど、あたしは好きで生きている。

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