例えば秘密のノートに記すように。

cancion-de-la-abeja(みつばちのささやき)          

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日がな壱日


 キリマンジャロは昨日で終わった。ひと月は持たない。今朝は新しい珈琲豆の袋を開けた。
 今度の豆はあまみが強いが、彼の好きな酸味もある。豆はキリマンジャロに比べるとやわらかく、手動のミルで簡単に挽けた。

 気分がいいので、カーテンを外すことにした。
 持っていくものと処分するものに分け洗濯機に掛ける。其の後で窓とサッシと軒下を掃除すると、とうに昼が過ぎていた。
 午后は冷蔵庫を掃除した。だんだんまた泣きたくなってくる。

 泣くだけ倖せだったのだと想う。・・・だったと想っても、其の倖せは過去になっていない。是まで沢山ライブに出掛けたけれど、特に心に残っているライブも同じで、過去になっていない。憶えていることは同じ壱線上に存在している。
 今日も彼に言葉を掛ける。廿代の彼でもあり丗代の彼でもあり白髪の目立つ彼でもある彼が其処にいる。そして、ツリーが・・・、などと言っている。

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安住の地


 目覚めても部屋の中は暗く、明かり窓が微かに色を変えた様子に朝になったと気付く。此の頃陸時半にならないと眼が覚めなくなってしまった。夏との壱時間の違いに壱瞬慌てたあとで、塵出しに間に合えばいいのだしとゆっくり廊下を歩いていく。奥でばたばたと音がする。
 小さい方の亀はいつでも朝が早い。どの季節でも早起きだ。待ってた、とでも言いたげにこちらを見ている。餌が欲しいだけだと知っていても、其の仕草に全力で守ってあげたい気持ちにさせられてしまう。

 新しい場所にはどの手提げ袋に入れていこうかと考えている。此処に来るときは自転車に乗せて連れてきた。
 越してきたばかりの頃、小さい方の亀はきゅうきゅう鳴いてばかりいた。あたしと同じ神経質なんだろうか。またそんな想いをさせてしまう。

 拾ったことが良かったのかどうかは今もわからない。ただ拾った後すぐに颱風で川が溢れ辺りが埋まってしまったことを想い、悪くはなかったと自身に言い聞かせる。
 自分と一緒に住む場所を安住の地だと想ってもらうしかない。

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木材


 木材が結構あって驚いた。いつの間にこれほどまでになっていたのだろう。
 物を置くのに棚と棚の間の高さや幅が合わず、ホームセンターだったり佰圓均一店だったりと行く都度木材を購入しては簡素な棚を作り、棚に作った棚を置いては物を入れていた。また引っ越すことを想いしっかりしたものは敢えて作らなかった。
 捌年間こうして自分なりに工夫してきた証だと想い、木材の殆どを残すことにした。其れにあたしのことだから、此の先も使い勝手が悪いと言い、玄翁と釘を手に簡素なものを作り続けるに違いない。

 抜いた釘はどうしたらこうなるのだろうと想うほど曲がっているのものが数本あった。真っ直ぐ打てていないのだとよくわかる。
 好きなことと得意なことは決して等しくない。自分がかなりな不器用だと知ろうが知るまいが関係ない。得意なことがひとつもなければ、不得意なことも特にない。
 傍でこちらを見ることもなく別なことをしている彼と、遠くから興味深かそう、或いは怪訝そう心配そうに窺っている父を感じながら、木材を抱え笑っているあたしがいる。其れもあたしの日常だ。

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陸橋にて


 陸橋の長い階段を久し振りで上っていく。以前息が苦しくなったことがあり心配したものの、全くそんなこともなく上り切る。高い場所へ行くと清々しい気持ちになる。風が強い日は軽い目眩を覚えたりするけれど気にしない。
 欄干に立ったはいいが、線路の向こうに眼を向けられなかった。太陽が射してくる位置と丁度重なっていてまぶしい。た。富士の山は今日は見えるのだろうか。青空に問いかける。

 何処にいても彼を感じてしまうのは仕様がない。特にコロナ禍になり其の間彼が病気になってからは一緒にいることが多かった。とは言え、何故彼との記憶のみが生々しくあるのだろうか。陸橋の上で寫眞を撮ったことや、小さな実をみつけ一緒に不思議がったことや、辺りを歩き廻ったことのひとつひとつを感触で憶えている。
 ともだちと過ごして愉しかった記憶を想ってみると、記憶は愉しかったと云う言葉と事実とで蘇るが、感触は薄い。其処にある筈の静物は殆ど浮かんでこない。
 眼と耳と鼻と頬と指と・・・、其れを余すことなく使うほど彼といるときはリラックスしていたのかもしれない。
 陸橋を下りる前に長い息を吐いておいた。

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根雪のように


 朝は冷える。電気ストーブだけでは物足りなくなり、セーターの上から毛布のようなトレーナーを着ると、彼の視線を感じる。カエルの人形を腕に、カエルの人形に大きな声でひそひそひそと話し掛けている。あたしが彼の方に眼を向けると、くま、くまがいる、と言い後退りをする。苦笑するしかない。
 「着る毛布」と云う言葉を知る以前、雑貨屋で部屋着兼寝間着の衣類にみつけた。薄い茶色でくまのように見えるのだろう。

 寝間着にしては結構な値だったが、綿の厚いものをみつけ彼に渡すと気に入って着ていた。其の上から羽織るカーディガンも彼にも数枚編んだ。
 だんだんと寒がりなことに気付いたあたしたちだった。
 治療後は痩せたこともあり炬燵に入るようになった彼を思い出す。今は鏡台のある位置に座っていたことが脳裏に鮮やかに刻まれている。
 あたしが此処を去っても此の家が取り壊されても、誰が知ることはなくても、其れは根雪のように此処に残るのだろうか。

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