例えば秘密のノートに記すように。

cancion-de-la-abeja(みつばちのささやき)          

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櫻色


 丁度いいバスの時間がなく、かと言いタクシー往復壱回分の料金に悩みたくなく、此の間買った雨合羽を着ていつもよりずっと早めに家を出た。それでも病院に着いたのは約束の伍分遅れだった。

 病室を訪ねると、母の介護認定の調査は始まっていた。
 花を育てるのが好きだった母に花の寫眞を撮って面会の都度見せていることや、其れに対し反応がいいことを話すと、調査員さんは母に好きな花を尋ねた。薔薇か藤とでも応えるのかと想っていたら、春だったら櫻が好き、とにこりと笑い応えていた。
 事が終わり調査員さんに、嬉しそうな顔で笑いますね、可愛らしい、と言われ複雑な気持ちになる。

 拾代になるとロックスターを好きになり(革の服はまだ無理だったので)デニムやTシャツを好んだあたしに、ピンクのシャツワンピースを買ってきた母を思い出す。
 あたしの苦手な明るくはっきりした色を好む彼女。シャツワンピースのピンクはやわらかなピンクだったので嫌がらずに着ていたけれど、あれは櫻色でもあったなと振り返る。

 雨合羽の上着は赤みの強いくすんだピンク。きれいに雨粒を弾いていた。

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体温


 昨夏は体温が上がることもなく冬も低くなることはなかったので、安定したのだと想っていた。今日も丗度に達した気温になったが、暑さを感じるだけでなく頭がぼんやりし頭痛も覚え、頬が熱くなってきたところでいつものがやってきたと判った。
 幸い明日は雨で気温廿度ほどの予報が出ている。今日より拾度も低くなればひと晩で体温も下がるかもしれない。
 布団を敷き水枕を当て寝転がると気持ちよかったのか、陽が高いと云うのに眠ってしまっていた。

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BEATNIK


 卓を磨きベンチを磨き、鏡台を磨き、縁台を磨き、食器棚を磨く。
 フライパンに残ったオリーブ油を拭きとったキッチンペーパーの端で流しの汚れを拭いたところぴかぴかになったので、なんとなく卓も拭いてみたところ綺麗になった。此処に来て購入した硝子戸の棚以外はどれも古く高価なものではなく、気にせずオリーブ油を染みらせたキッチンペーパーで掃除すると、見違えるほどになった。

 乾燥花も古い家具も過去を閉じ込めるものでなく、意匠が気に入り残してきたもので、あたしと一緒に此の瞬間を生きている。其れがいっそうの輝きを放てば嬉しくないわけがない。

 染みのできてしまった古いTシャツも綺麗にした。漂白し、手でもみ洗いすると、藍いロゴは落ちず生地は真っ白になった。
 此の家がもし最後の場所になったなら、此のTシャツを着て朽ちていくのが素敵かなと想う。

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窓の内側


 笑い声が張り付いて落ちない。
 硝子に描かれた無機質な残像。
 窓の向こうはただ光がまぶしいだけ。

 光は部屋に入り込む。
 窓を開け、腕を伸ばし光にふれる。
 ふたつを分けるものは同時にふたつを繋ぐもの。

  窓の内側で生きている。
  窓の内側であなたと過ごしている。
  いつか消えてしまうと知っている。
  知っていても積み上げ紡ぐ、その窓の内側で。

 遠くまで行くことはなくなった。
 世界を教えてくれる人はもういない。
 窓の向こうは止まったまま弐度と動かない。

  窓の内側でも花は枯れる。
  窓の内側でも時はとどまらない。
  愛を残すのはあたしだけ。
  消えるまで止まない記憶。その窓の内側。

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 浴室の窓を開ける。弐階の窓を開ける。客間の窓を開ける。台所の窓を開ける。自室の窓を開ける。あたしは窓を開けることができる。躊躇うこともなく、ごく自然に。

 開けた窓を不快に感じることもなく、気にとられることもなく、あたしは壱日を過ごすことができる。電話帳を見ることもなく、便箋や切手の入った箱を引き出すことさえやめてしまっても、あたしは窓を開けることはできる。

 余り音楽を聴かなくなり、余り映画も観なくなり、余り文庫本も開かなくなったけれど、全くと云うことはなく、ときどきしては泣く、できると言っては泣く。そしてひとりでも笑う。彼とは話す。自然に話しかけることができる。夜も彼に声をかければ恐くない。

 窓辺に立ち窓の外を覗く。紙とペンと言葉があってよかったと想う。暫く風邪さえひかず伏せることもなく、欠かさずに書いてきた日記はあたしの窓。小さな小さな窓。泣きながらでも躊躇うことなく開けてきた窓。

 窓しか見えなくても、窓の奥には人の存在。誰かの手により開けられた窓。声にならなくても、其処に誰かの声、あたしの声。窓、窓、窓、・・・、あちこちで窓が開く。聞こえなくても、耳の内で響き渡る窓の音。あたしも窓を開けることができる。

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