例えば秘密のノートに記すように。

cancion-de-la-abeja(みつばちのささやき)          

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湿った空気


 霧雨が降る朝になった。寒さに肩をすぼめ郵便受けから新聞を抜き取る。
 寒くても霧雨ならば濡れたいと想うのは何故だろう。
 此の頃たまに咳をする。寒暖差から来ているのか、乾燥してきたからなのか、はっきりしない。ただ湿った空気が気持ちいい。
 家の中に入り塵袋をひとつ抱え、また玄関を出る。傘は差さない。

 拾壱月だったと想う。日の出を観に行こうと誘われたのは。
 靄に包まれ輪郭がわからなくなってしまった景色と橋の上に昇った太陽は、水墨画を想わせた。幻想的な風景は異国に迷い混んでしまったようでもあり、あたしはカメラを放さなかった。

 睡眠時間の多いあたしと違い、彼は夜更かしでもあり早起きでもあった。よくひとりで自転車に乗って出掛けていた。
 彼が教えてくれた景色の数々。ひとりでは弐度と行けそうにない場所を思い出すと(先日も駅を降りて東京都美術館に行くのに迷っている)、頬にあたる湿った空気。川沿いの道ばかりふたりで走っていた。
 霧雨の朝になった、と彼に掛けた声が弾んでいた。

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ウォーターヒヤシンスバスケット


 同じような籠ばかり購入するので彼は笑っていたけれど、特にヒヤシンスと記された籠は軽くやわらかく使い勝手がいい。
 一緒に使う細々としたものを其処に放り込み定位置にしまい、籠ごと取り出し使っては戻すの繰り返し。ファイルケースを入れられる丁度いい大きさのものがみつかれば、いっぺんに伍個くらい買ってしまうのにと想う。

 ヒヤシンスをどうやって籠にするのだろうと想っていたらヒヤシンスでなく正しくはウォーターヒヤシンス、ホテイアオイの別名だった。
 亀たちの水槽の水が高温になるのを少しでも防ぐため毎年夏になるとホテイアオイを買ってきていたが、夏に食欲旺盛になる彼等はせっかくのホテイアオイを喰い散らかしてしまっていた。
 ホテイアオイは薄紫の綺麗な花を咲かせる。奇蹟的に残ったホテイアオイに花が咲き亀と一緒に寫した寫眞は、貴重な壱枚になった。

 いつか古代蓮を観に行った池の隣の池に、ホテイアオイが隙間なくぎっしり浮かんでいたことを思い出す。其処にも彼がいて、手を伸ばしたバスケットの向こうにも彼がいた。

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 暦を購入する季節になったのかと想いながら、目をやっただけで通り過ぎる。
 きっと鳥も猫も亀も季節を知っている。自身の暦を持っている。稀に、あっ此の瞬間と想うこともあたっりするけれど、残念ながら自分には暦がない。
 急にご飯を食べなくなった亀にそうか・・・と想い、家で過ごす際裸足なのに変わりはないものの取り敢えず冬用のスリッパを出した。季節と並べず、そんなふうに季節の少し後を辿っている。

 何故或のときあたしが泣いたのかわからないと彼は言ったけれど、ああ云うことを言ったあなたを美いだなと想ったから泣いたの。そんな簡単なことをどう云うふうに言えばいいのかわからなくて、今になって打ち明ける。
 でも、遅かったなんて想っていない。もし彼がそのことを憶えていたなら、時間を掛けた後何かしら気付いたのではないと想うから。

 ひとりでいるときは部屋の中の扉と云う扉を少しだけ開けておく。区切ることが苦手。自由に行ったり来たりする感覚が好き。
 過去も未来も今と云う時に存在するものでしかなく、其処に淡々と呼吸を置く。

 見えそうでいていて見えないと想っていると、ふいに現れるもの。或の歌も或の絵も時が運んでくる。
 暦は気にしなくていいと何者かが耳元でささやく。きみに刻まれたものを受け止めなさいと。

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人参の葉


 人参の葉は森で生きる羊歯に似ていると想う。或の青々とした濃厚な緑の群生、且つ繊細な姿は、あたしが想い描く野生の生き物そのままで、見た途端笑みを浮かべてしまう。
 落とした葉をそのまま花瓶に活けても綺麗だし、ザクザク切ってオリーブ油で炒めたりさっと茹でたりして食べてもおいしい。

 暫く人参を食べていなかったことを思い出し、根の方は皮引きで壱本薄きりにする。味見に口に入れると濃厚な味が口に拡がった。ドレッシングも塩も要らなかった。葉とトマトと蒸し鶏を盛り合わせ夕食にする。
 天麩羅にしたりもしたけれどさっと調理して食べるのおいしいね、と彼に差し出し、彼には缶ビール、自分には最後の薔薇茶を添える。

 毎日休日と言えば休日、そうでないと言えばそうでない毎日が続いている。そのくせ妙に疲れている。自分は精神面の健康が躯に露骨に現れるようだ。
 ときどき襲ってくる強烈な眠気に為す術もなく、植物になりたいなどとつぶやいては時間など構わず倒れるように横になる。壱瞬瞼の裏に現れる緑。余りに美しく泣いてしまった。

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花を買うしか


 拾壱月も半ばだというのに、まるで夏のような暑さに日傘をさして歩く。黄葉した葉が光を受け辺りは黄金色壱色の世界。何処に紛れ込んでしまったのだろう、と想う。
 彼が別の場所に行ってしまってから、世界との付き合い方がわからなくなってしまっている。

 参時に彼の友人から電話があった。月に弐回ほどそう云ったことがあり、無意識のうち暮らしを意識するのか、其のときは頭がはっきりしパスタなどを茹でては食事もきちんととれる。
 此の壱年と数箇月で自分の友人は随分いなくなった。実際はいなくなったのでなく、自分の意識から消えてしまったのだ。特に友人に彼の話はしなかったけれど、あたしには欠かせないものであって、彼を内包した自分とつきあってくれた人でないと続かないのだろう。

 また眠い時間が増えた。
 倒れるように部屋に横になり時間に構わず寝てしまう。時間は計ったことないけれど、拾分だったり廿分だったりとそれほど長い時間でない気がする。
 目覚めると、躯はいつもまるくなっている。膝が鼻に近い。躯を起こすとき何も想わない。こんなとき何を想えばいいのだろう。

 あたしが失ったものは暮らしだと気付いたとき、花を買うしかなかった。そうして、あれが欲しいと彼に言い買った、木製の鏡台のきれいな脚を撫でた。

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