例えば秘密のノートに記すように。

cancion-de-la-abeja(みつばちのささやき)          

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附表


 買い物がてら散歩をしていて電話に気付く。ふひょうを取ってもらえますかと言われ、ふひょう?ですか?と訊き返す。
 附表とは住所の履歴が記されたものだと知る。

 知らないことの方がまだまだ多い。
 教室の窓から遠くを見ていた頃よりは生きていく厳しさを覚えた筈なのに、見知らぬものに対し焦がれる気持ちが止むことはない。

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気力


 家事を終え、自分の時間ができると買い物と散歩をし日記をつけ穴の開いたセーターをほどくことなどしているうち日が暮れていく。
 此処では仕事をみつけるにも車を持っていないと通勤できないと云うこともあるが、未だに叔父夫婦を警戒してやまない母の希望もあり、壱日を家で過ごす。尤も家の中の片付けが終わってなく、家具を購入しなければ引っ越しの荷解きもできないものがあるのと、今の自分の状態で外へ出て何をしても続かないのは眼に見えている。
 必死な気持ちになれない。気持ちが湧いてこない。

 彼の寫眞を見ているとき確かにあたしは笑っているのに、珈琲豆も壱度挽いたきりになっている。

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消しゴムでこしらえた判子


 デイサービスで努力証を貰った母に、判子をこしらえた。消しゴムにカッターで花と名を彫り廿分でこしらえた簡素なものだが、塗り絵に押すには充分なものだと想う。
 母は喜んだが、作品に押すものだとは理解していないようだった。名を記すと云う感覚の無い人は皆そうなのだろうか。

 彼の為にこしらえた亀を彫った消しゴムの判子は今も残っている。
 楽譜に押すことがいつのまにかあたしの役目になっていた。此処に押したの?って何度が言われたけれど、楽譜の読めない自分に最適な場所が判るわけもなく、空いている箇所をみつけると押していた。
 沢山の楽譜も殆どを処分するしかなく、今は其の記憶が印になった。かつては自分用にこしらえたこともあったけれど、此の先自身の為にこしらえることはないだろう。

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大きな苺


 デイサービスで苺狩りに行くと玄関を出ていった母は、夕刻になり大きな紙袋と共に帰ってきた。中には箱がふたつあり、ひとつは度々お世話になっているご近所さんへ、ひとつはあたしにだった。
 箱の中にはパックがふたつ入っていて、父に供えた後すぐにさげて彼の前にひと粒座卓に肆粒置いた。
 大きな大きな苺の粒だった。大きな口を開け食べて、苺の瑞々しさに笑う。

 瑞々しさと爽やかなあまさは、果実でしか得られない悦び。果実が笑っていると、あたしも笑うのだ。
 ひとつ口に入れる毎、自分も苺の赤に染まっていく。ひとつの命で生き返ったようになる自分が。

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雨の朝


 雨の音が聞こえる。此の家で台所が雨音がいっとうよく聞こえる場所かもしれない。
 このところの毎日の風に晒され乾燥した肌と髪が立てる音が消えている。雨でやわらかになった空気。いい朝にあった。家具を購入し、それから春になり窓を開けるようになるまで、彼には台所の窓辺にいてもらおうと想っている。
 朝の光を受け笑う彼が、今朝は雨音を背に笑っていた。

 時々嫌な記憶が蘇る。おはようと言い彼に前に立つことで全てが断ち切られる。彼ももし嫌なことがあったなら、おはようのひと言で断ち切られていればいいと想う。

 朝、あたしたちは重なって、其処から別々な方向へ往く。彼の悲しみは知らないけれど、朝、あたしたちは今も重なることはできる。

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